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世界観の違い。

西洋は基本的にキリスト教の世界観で考えている。
日本は良くも悪くもアミニズムの世界観で考えている。

どっちがいいとか悪い、とかではなく
そういう思考をしている。

日本人の私は
キリスト教の世界観が理解し難く、
西洋人からすると
日本的な世界観は理解し難いことなのだと想像します。

なにが違うのか。
アレクサンダーテクニークを学ぶにあたって
なにが問題となるのか。

キリスト教的には人間は被造物であるということは、
その被造物の身体は私が自由に取り扱えるという感じなのではないか。
いわゆる、モノとして見ているのではないか。

そのような世界観の中でアレクサンダーさんは、
考えていることと
身体を使って動くということは
切っても切り離せないと。
そのようなことを言った。

これは実はすごいことで、
モノである身体は身体を支配している
自分と切り離せないんだと、言ったわけです。

日本人的にはなんてことない考えかもしれませんが、
キリスト教世界観ではかなりの思考の飛躍だったと想像します。
実際著書の序文でフランシス・ベーコンの言葉を引用して、
哲学の新派を作りたいわけではない
と言うくらいには当時の考えとは違ったんだと思います。


日本でも西洋的な思考が紹介されます。
アレクサンダーテクニークが西洋から始まったので
どうしてもそうならざるを得ない。

それをそのまま私たち日本人に当てはめていいものか。

いや、この考え方自体が間違っているような気がします。
思考されたものが知識として入ってきますが、
私たちアレクサンダーを学ぶものとしては
知識となったものを、思考する段階まで戻し、
その思考することをたどりなおす必要があります。

そうすることで西洋的なもの日本的なものと
分ける必要すら無くなるのかもしれません。

自分への刺激に対する反応を見ていくわけなので、
誰も同じく見つめることができる。

世界観の違いによる問題はないのかもしれません。



頭で考えることと生活することとをつなげることが
日本人はどうやら苦手なようなので
アレクサンダーテクニークの
「考える」という部分がクローズアップされて
なにやら簡単なことのように紹介されていたりします。
考えるだけで思ったことは実現するんだ、みたいに。

精神世界、スピリチュアルが悪いとか
そっちへ行くとダメだと言っているわけではなく、
アレクサンダーテクニークとは違うものを扱っているという
自覚が必要なのではないでしょうか。

アレクサンダーさんは
身体というモノを観察することによって
色々な考えを得たわけです。

とすると、私たちも
身体から始めるべきなのではないでしょうか。

こうすればいいとか
これがいいと言われているもの、
仕入れてきた知識をただ当てはめるのでなく、
自分自身の身体を観ることによって
どんなことが起こっているのか、
考えて得た答えとどのように違っているのかを
見つめることから始めないと
現実からはどんどん離れていくことになるのではないでしょうか。

まあ、私が散々やってきたことなわけで。
恥ずかしいですが。

こんな頭でっかちな私は、
アレクサンダーテクニークという
どこまでも身体を見つめるものに惹かれ、
自分のバランス感覚を取り戻したかったのかもしれません。

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