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「書く」ということ

松岡圭祐 著『ecriture 新人作家・杉浦李奈の推論』(角川文庫)

『ビブリア古書堂の事件手帖』シリーズなど文学作品×ミステリーが好きで、色々と探している中で出会った一冊。表紙のイラストも素敵でジャケット買いの傾向がある自分にはピッタリでした。

~簡単にあらすじ~
タイトルの「杉浦李奈」は本作の主人公。ライトノベル作家をしている彼女が新進気鋭の作家との対談をきっかけに奇妙な出来事に巻き込まれていく。

タイトルの「ecriture」は「書く」という意味のフランス語だそうです。
これを調べるのにもネット使いましたけど、小説の現場にも着実にネット化の影響が出ているんだなというのを感じました。

「書く」という行為にはいろいろな役割があるなと改めて思います。対面で話すよりも自分の思いを書いて伝える方が伝えやすい人もいるだろうし、ネット社会の普及は「書く」という行為を身近なものとするのに大きな役割を果たしていると思います。

今作を読んで思ったのは「何のために書くのか」ということ。物語の中に登場してくる太宰治や芥川龍之介といった作家は、自分の思いとか生き方を自らの作品に乗せたんだろうなというのが伝わってきます。でもそれは作品や作家の研究が続けられてきた結果で、彼らが何のために書いたかはわかりません。

文豪と呼ばれる作家にも現代の作家にもSNSなどを利用している人たちにも共通しているのは「誰かに読んでもらうため」なのかなというのが読後の感想です。自分の思いが誰かに読まれて、読んだ人から感想や評価をもらえると普段伝えらえれない人にまで自分の思いを伝えられて、もしかしたら普段否定されていたものが同意されたり、高評価されたりすると充足感もあるのかなと思いました。

だから人は言葉を「選ぶ」はず。「素直な思い」と言いながら、公開するときは読み手を意識して、考え抜かれた言葉を出しているはず。それは小説もエッセイもSNSの投稿も何一つ変わらないと思いますし、現にこのnoteについても色々と言葉を選びながら書いてます。

この考えるステップを飛ばし気味にしてるのが原因で最近色々な問題が起こっているのかなと。
人の言葉を自分の言葉のように伝えること。読む人の存在を気にせず自分の言葉をそのまま出すこと。
情報の正確さよりも、他の人より少しだけでも早くつかんでいることで満たされるように感じる時代の風潮の中で、真実を伝えることには思った以上のリスクが存在すること。

書く側にも読む側にも責任があることを改めて思いました。

シリーズ化するのかなーと読んでいたらすでに2作目が出ているそうで…
積読の山にごめんなさいをしながら、標高を高くしようと思います。

トップのイラストは「吉澤まゆみ」さんが公開されているものを拝借しました。自分の読書スタイルにピタッとはまった素敵なイラストです。ありがとうございます。


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