チョココロネにまつわるエトセトラ
206X年。
名古屋で大人気のスイーツ店、〈大須ガトー工房〉の最上階特等席で、佑香は空中ディプレイに映る無人の院内の様子をチェックしていた。
メイド型アンドロイドではなく、工房のオーナー直々に、挽きたてのエスプレッソとオリジナルブランドのモンブラン〈大須ティン〉を運んでくる。
「樹先生、お誕生日おめでとうございます。こちらはバースデープレゼントです」
「わあ、横田さん、ありがとう。とっても嬉しい。〈大須ティン〉1日7個限定だもんね。あと特注チョココロネを8個追加、テイクアウトでお願いします」
「お客様ですか?」
「かわいい子が誕生日のお祝いに来てくれるんですよ」
「それは楽しみですね。ご注文はお帰りの際にお渡ししますね。ごゆっくり」
◇◇◇◇◇
総合医療研究所〈矢場院〉の院長・樹佑香は、若くしてアンチエイジングに基づいた美容外科と脳神経外科・内科、そして心理学の世界的権威だった。
過去半世紀、脳医科学の進歩は目覚ましかったが、古くからSFで定番の脳移植は、公式には未だ動物実験でも成功していない。しかし、佑香の師・瑠津奏(ルッソ)リアは、密かに移植後の個体が寿命を全うできるレベルで成功させていた。
〈矢場院〉の地下5階には〈先進探査研究所〉があり、所長のリアが各分野の超一流頭脳集団を率いている。〈矢場院〉は〈先進探査研究所〉の表看板だった。
〈先進探査研究所〉のビジネススタイルは、他所では対応できないテーマの依頼を受け、極秘裏に研究・成果報告をすること。目下最大のテーマは【脳死生還】。認知症患者への応用も絡んで、世界規模の高齢化の進展とともにニーズが急増している。
既に、ヒトの再生細胞を使った脳神経細胞への細胞移植が行われるようになって久しいものの、重度の拒絶反応と神経接続障害をともなう脳移植のハードルは高かった。
細胞の融合と記憶の継承の2つをクリアしなければ、脳移植は成功しない。
リアが成功していたのは、若いラット間で脳を相互に入れ替える完全脳移植だった。もちろん、完全脳移植は人間同士では実施できないが、その狙いは他にある。
リアは【脳死生還】を、〈記憶転写〉を基軸とする方向で長年研究を進めてきた。この『メモリトランスクリプション』スキームでは、患者の再生細胞から作成・成熟させた〈脳オルガノイド〉に記憶を転写した後、脳と〈脳オルガノイド〉をそっくり入れ替える。
完全脳移植技術はこの入れ替えのためのもので、〈脳オルガノイド〉成熟技術とともに世界で唯一、リアの専売特許だった。
◇◇◇◇◇
〈脳オルガノイド〉も、クローンと同じように遺伝情報通りに成長する。後天的な記憶情報が複製されることはない。『メモリトランスクリプション』スキームはその記憶の問題を解決する。
佑香の師であり、研究チームの指揮をとるリアは、イタリア出身の大科学者にして名医だ。シエナ・メディカル・アート・インスティテュート在学中、『記憶抽出と転写の概念』というテーマで論文を発表していた。ただ、内容があまりにも斬新で難解だったため、当時の学会ではほとんど見向きもされなかった。
そんな中、生理学・医学と物理学の2つのノーベル賞受賞者の樹真一は強い関心を示し、高齢化の最先端をゆく日本で研究を継続・発展させるようリアに強く勧めた。真一は佑香の祖父だった。
日本文化を愛していたリアは、これを機に日本に移住し、虜になったアニメとチョココロネが決め手となってそのまま帰化した。
真一のバックアップの下、構築した『メモリトランスクリプション』スキームに基づいて、リアたちは十数年にわたる試行錯誤の末、独自開発のデバイスを使って脳から記憶をデジタルデータとして抽出し、特殊な微弱電波で活動を誘発させた〈脳オルガノイド〉の神経細胞にエンコードする転写アルゴリズムを編み出した。
エンコードは夢を見るプロセスを真似ている。
〈記憶転写〉は、いわば〈脳オルガノイド〉に夢を見させ疑似体験をさせることで、記憶を転写するのだった。
数年かけ、実験を繰り返してきた研究チームは、実験体ラットVKNJ2024由来の〈脳オルガノイド〉の記憶から、リアやメンバーから受けている学習訓練の様子をVRインターフェースを通したモニタで確認した。
歓声が湧き上がり、ラボ内は歓喜の渦に巻き込まれた。
「やったー!」
「Eureka! Eureka!」
シチリア生まれということで、アルキメデスになぞらえてリアを称えるメンバーもいた。めったに感情を表に出さないリアも、思わず笑顔を見せる。弟を若年性認知症で亡くしていたリアにとって、この成功には感極まるものがあった。
研究チームは〈脳オルガノイド〉をVKNJ2024の脳と入れ替えた。記念すべき第1号のVKNJ2024は《ルチア》と命名される。数か月間の観察期間を経て、AIが《ルチア》の術前術後の膨大な行動記録を比較する。
60%以上一致。結果は上々だった。
さらに数年をかけ、記憶抽出の精度向上と微弱電波の調整をした結果、VKNJ2049以降は安定して90%以上一致するまでに至る。リアは動物実験レベルで『メモリトランスクリプション』スキームが確立したと判断した。
子どもの頃から、身近でずっと精力的な研究活動を見てきた佑香はリアと抱き合った。
「リア、おめでとう、やったね! 爺っちゃんも喜んでるよ!」
「ありがとうございます、佑香さん。真一先生には……ただただ感謝の気持ちでいっぱいです……」
リアは微笑むホログラムの真一を見て、目を潤ませた。
◇◇◇◇◇
はたして人間の記憶はどこまで転写できるのか――次のステップの成否が【脳死生還】の行方を占う試金石となる。
研究所の実験ラットは、ストレスや怒り、不安、恐怖といったマイナスの感情を極力持たないように管理されている。だから〈記憶転写〉の結果は安定しやすいといえる。
それに対して人間には当たり前のように、プラスの感情だけでなくマイナスの感情もあり、複雑に絡み合っている。何より記憶情報は膨大だ。
(最初は一番よく知っている自分の記憶を転写すべきだろう)
リアはプロジェクトの開始前から決めていた。
専用の実験体RKNJ0025の〈脳オルガノイド〉にリアの記憶が転写される。
ラットの時とは比べものにならないくらいの時間がかかったが、〈記憶転写〉は成功した。リアはこの〈脳オルガノイド〉に母親と同じ名前《ビアンカ》と命名した。
《ビアンカ》の記憶の検証中、研究所や熱田神宮・若宮大通の風景に続いて、〈大須ガトー工房〉の特注チョココロネがモニタリングされると、リアと佑香は思わず爆笑する。
「リアのチョココロネ好きはチョーヤバ」
「美味しいものは美味しいんです」
「ネズミの好物ってチーズじゃなくて、穀物や果実なんだって。チョコレートのような甘いお菓子もこよなく愛しているみたい。だからこの子の〈脳オルガノイド〉も、チョココロネに惹かれたんじゃないかな」
「人間の記憶でも、好きな食べ物の記憶なら刻まれやすいということでしょうか。これは世紀の大発見ですよ!」
佑香は、ずっと研究中心の人生だったリアが、だんだん人間らしさをみせてきているのに親近感を覚える。
「移植ステージに進む?」
「もう少し検証を重ねたいです。チョココロネ以外にも転写されているのか、気になってますし」
リアはちょっとおどけてみせた。
佑香は笑いながら地上の〈矢場院〉に戻っていった。
◇◇◇◇◇
ここ数年、太陽フレアのため、世界各地で電子機器の誤作動が発生していた。実験を始めて半月後、親族の不幸で急遽帰国したリアの留守中に、予報を大きく超えるⅩクラスのフレアが襲う。
十分な対策をとっていた〈矢場院〉や〈先進探査研究所〉でもこの影響は大きく、気がつかないうちに自動制御管理システムが誤作動を起こしていた。
この結果、特別ラボの《ビアンカ》が通常ラボの〈脳オルガノイド〉と入れ替わり、その後事実を把握していないメンバーによって、一般実験体VKNJ2068に《ビアンカ》が移植されてしまった。
術後の行動観察期間中、VKNJ2068は管理システムをかいくぐり、ラボから逃げ出すことに成功する。全ての実験体ラットには体内のリン酸塩を燃料とするマイクロ電池で動く発信チップが埋め込まれており、ラボ内の全てのラットは常に監視されていた。
異常を検知したアンドロイドは、マニュアル通りに関係諸機関とリアに通報するとともに〈矢場院〉含めて全館を完全封鎖したが、しばらく経つとVKNJ2068の発信信号が突然消えてしまった。
ほどなくして、VKNJ2068が実は《ビアンカ》だったことを知った佑香は、スタッフを全員自宅待機させる一方、施設内のアンドロイドを総動員し、外部逃亡の可能性も視野に入れた《ビアンカ》探索を指令する。
佑香には読みがあった。
(ラボしか知らないあの子たちにとって、外界は相当過酷な環境。リアの記憶のある《ビアンカ》なら、なおのこと安全な施設内にとどまっているはず)
しかし探索は意外に難航する。早々に外部逃亡の可能性はゼロと断定、範囲を施設内に限定したものの、《ビアンカ》の発信チップもフレアで障害を起こしたのか、信号は相変わらず検出されない。貴重な実験体相手に手荒な真似はできず、アンドロイドたちは古風なローラー作戦を展開せざるをえなかった。
この間、佑香はずっと院長室にこもり、《ルチア》以降の術後ラットたちのデータの分析結果の精査に明け暮れていた。
「まさか……それってありなの……チョーヤバ」
映像では一瞬でも、《ビアンカ》にはその記憶がしっかりと刻まれているのだろうか。
佑香は飛行スクーター〈ダイアナフライヤー〉にまたがると、チョーカー型端末から〈ニューロリンク〉で全アンドロイドに向け指令を発した。
「探索終了、地下待機所に戻ってください。私は外出しますが、引き続き全館を完全封鎖してください」
直後、リアから〈ニューロリンク〉が入った。
◇◇◇◇◇
その日の夜。
院長室にコーヒーブレイク中の佑香と帰国したリアの姿があった。
「遅くなりましたけど、お誕生日おめでとうございます。大変でしたね」
「ありがとう、リア。お疲れモードだけど、チョココロネでまもなく復活モード」
リアは顔をほころばせた。
「私の記憶は思っていた以上に刻まれていたんですね」
「移植したどの子の記憶映像にもリアが映っていたからね。リアって、暇さえあればあの子たちの訓練を手伝っていたのね。楽しかった?」
「ええ。これといって、今は特に趣味がないですから」
「みんな楽しかったみたいだよ。幸せな気分になれたから、全部でなくてもリアの記憶はこの子に定着したんだよね、きっと」
チョココロネを食べ終えた佑香は熱いコーヒーを啜る。
「それ使って先読みして移動されたら、そりゃいくら捜しても見つからないって。アンドロイドもこの建物も設計したのはリアだしね。おかげで、みんなこの子の『かくれんぼ』に付き合わされちゃった」
「あはは、私の好きなアニメネタになりそうですね。でも、さすがにそれはないですよ、佑香さん。なかなか見つからなかったのは、おそらく野生の遺伝子によるものでしょう。祖先のノルウェー・ラットは基本怖がりで、警戒心が強いですからね。ビアンカはただ、本能的にアンドロイドを警戒して逃げまわっていただけでしょう。その確信があったからアンドロイドを引き上げさせ、全館無人にしたのではありませんか?」
「バレたか! 《ビアンカ》はナイーブな子なのよ」
佑香はペロリと舌を出す。
「ところで、リアが私の誕生日を覚えてくれていたなんて意外だったな」
「ああ、それなんですけど、今度ご一緒に旅行しませんか?日頃お世話になっている私からのささやかなプレゼントです」
「わあ、嬉しい! お付き合いとっても長いのに、リアとお出かけするのって初めてよね」
「近いうちに今回の件で処分が下されるはずですので、実はお詫びも兼ねています。お手数をおかけします」
リアが頭を下げると、佑香は首をすくめて
「チョーヤバ。ま、お偉いさんに怒られるのもお仕事のひとつだからね」
ふーっと一息つくと、顔を輝かせて
「今日は記念すべき誕生日よ。生まれて初めてラットに祝福してもらったんだもの」
「今回のアクシデントでは、そこが一番興味深いところなんです」
「チョココロネの記憶がきっかけだったとしても、この子のリアへの想いがなかったら、ここ2日間の狂想曲はなかったと思う。転写されたリアの記憶を芋づる式に結びつけて行動を起こす原動力。そこには想い、感情が絡んでいたとしか考えられない。この子と接触したことがない私の記憶まであったのには驚いたよ」
リアは穏やかな笑みを浮かべた。
「佑香さんに関する記憶は私の記憶からきたものでしょうね。残念ながら、デコード能力の限界で、現在はデータ量が多いと活性化している記憶しか映像化できません。このため、〈脳オルガノイド〉の時点で映像確認できない不活性な記憶が、移植後に活性化する可能性はあるのです。ラットと違って、今回は私の記憶ですから、間違いなくあてはまりますね」
「うーん、またまた妄想に走っちゃったかな?」
佑香は頭をかく。
「数字を画像認識させる訓練はプログラムに含まれていますから、私の記憶の佑香さん誕生の日は、画像として認識したのでしょう。今日が何日かも、電子時計や電子カレンダーをはじめ、視覚的に画像情報で認識できる環境が施設内のあちこちにありますからね。《ビアンカ》が25日と26日を間違えたのはご愛嬌でしたが、ここまでは説明がつきます」
リアはコーヒーカップに手を伸ばす。
「しかし、大好きなはずのチョココロネを佑香さんに他の部屋に置いていただいたのに、《ビアンカ》が何もない院長室の机の上にやってきた経緯に関しては、私も説明できません。リサーチしないと断言はできませんが、もしかしたら佑香さんの言う通り、感情が絡んでいるのかもしれませんね。それにしても、生命の神秘は本当に興味が尽きません」
「そうそう。チーム・リアの研究テーマは無尽蔵なのよ」
机上のケージに視線を移すと、佑香はささやくように話す。
「知ってる? ラットってね、私たちが考えている以上に知能が高くて、人間には聞こえない超音波でお喋りもしているの。甘い物を食べてる時とか、みんなで楽しく遊んでる時に、お互い最高の喜びを伝えているんだって」
一瞬、《ビアンカ》はチョココロネを食べるのをやめると、2人を見上げた。
(終)