「たかがサラリーマン、されどサラリーマン」と、父は言った
藤本正雄さんの『採用活動で入社後の実態を伝える』シリーズを読んで、人事部門で採用を担当したことのある人間として、これは永遠の課題だと思うと同時に、ふと、父の言葉を思い出しました。
藤本さんの記事はこちらです:
私の父は昭和の典型的な仕事人間で、営業でお客様接待が多かったこともあり、私が受験勉強で夜更かしするようになるまでは、日曜日以外に父の顔を見ることは、ほとんどありませんでした。
仲が悪かったわけではありません。ただ、共に過ごす時間が少なかったことと父が躾に厳しかったことから、共通の趣味の映画について以外は、あまり話すことがありませんでした。したがって、就職活動でも父に相談することはなかったし、父から進捗を尋ねられもしませんでした。
そして、内定が出た日、たまたま早く帰っていた父に報告すると「良かったな。たかがサラリーマン、されどサラリーマンだ。頑張れ」と、父が言ったのです。
私は、まだ学生でしたが、父の言葉が意味するところが、3割くらい理解できたと記憶しています。父が、仕事の上でかなりの「苦労人」なのだろうと思っていたからです。
父から苦労話を聞かされていたからでは、ありません。父は、私の前で仕事の愚痴はもちろん、自慢めいたことも一切口にしない人でした。
ですが、母の前では多少は話していたようです。また、父の上司や部下の方が我が家を訪ねてこられて母と親しく話していました。そういう時にも、母は父の仕事について聞き知る機会があったのでしょう。子会社から親会社に移籍した父がそれなりの苦労をしたことを、私は母から聞いて知っていました。
そして、実際に、その後の私自身のキャリアを振り返っても、「たかが、されど」だったと思っています。今なら父が意味したことが8割くらいは理解できるような気がしています。私は父よりは恵まれたキャリアを歩んだので、あとの2割はわからずじまいでしょう(父も母もすでにこの世にいません)。
しかし、私にとっては、つねに《「されど」>「たかが」》でした。私は、「たかが」の部分に「チェッ」と毒づきながらも、「されど」の部分に私なりのプライドとやる気を持って働いてきました。おそらく、父にとってもそうだったのではないでしょうか。だから、就職が決まったことを報告した私に、「たかがサラリーマン、されどサラリーマンだぞ」と言ったのだと思います。
こんなことを言うと、「時代が違う」とお𠮟りを受けるかもしれませんが、私は「たかが」の要素が全くない仕事も会社も、あり得ないと思っています。大事なのは、「たかが」がないことではなく、「たかが」より「されど」の方が大きく、そこに社員が誇りを持てることだと思っています。
ですから、企業で採用を担当なさる方は、自社に「たかが」の部分もあることを学生さんに伝えてよいのではないかと思うのです。それを伝えた上で、その「たかが」を上回って余りある「されど」が学生さんを待っていることを伝える。加えて、会社は「たかが」を少しでも減らすべく努めている。それを率直に話せばよいのではないでしょうか?
私は、それが学生さんに対する誠意ある態度だと思いますし、そのような企業側の誠意に打たれて入社してくれる人こそ、会社を背負って立ってくれる人材だと思うのです。
それが、藤本さんがおっしゃる
につながるのだと、私は考えています。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
『「たかがサラリーマン、されどサラリーマン」と、父は言った』おわり
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