学問の健康とは何か

『数学の基礎をめぐる論争』を読んだ。

もともと、数学基礎論・数理論理学への興味から巡り合った本だった。

しかし、この論争は、学問の健康とは何か・学問の健全な発展とはどうあるべきか、という問いについて非常に示唆的であると感じるようになった。当然ながら本書は数学の健康についての論争の様子を描いた書物であるが、同種の議論は物理学・哲学など学問一般へ広い射程を持つのではないか。

せっかくなので、数学的な話題にも触れながら、数学以外にも射程を持ちうると考えた話題についても私の考えを付記してみたい。

構成的解析と超準解析

本書の第Ⅱ部は、構成的解析と超準解析の間の論争を描く。また、第Ⅲ部の一部では超準解析についての平易な入門的記事も訳出されている。

ここで、構成的解析と超準解析をかんたんに説明しておく。ご存知の方はしばらく読み飛ばして欲しい。

構成的解析 (Constructive Analysis; CA) とは、排中律 (Law of Excluded Middle; LEM) を認めない直観主義的論理 (Intuitionistic Logic; IL) の立場に立って作られた解析理論である。

排中律とは、あらゆる命題 𝑃 について 𝑃 / not 𝑃 が成り立つことを要求する法則で、記号論理では

𝑃 ∨ ¬𝑃

のように書く。

排中律を要求する方がよほど直観的 (intuitive) だと感じるのがふつうだと思うが、ことはそう単純ではない。 𝑃 が、何かの数学的エンティティの存在を主張する命題だとしよう。そして ¬𝑃 から矛盾が導かれるとしよう。これは

¬𝑃 → ⫠

と書くことが多いが

¬𝑃 → (0 = 1)

でもよい。
このとき、 𝑃 が成り立つとしてよいのだろうか。すなわち、何らかの数学的エンティティが存在しないと仮定して矛盾が生じたからといって、ただちにその数学的エンティティが存在すると結論してよいのだろうか。

構成的解析の起源は、まさにこの問題意識にある。 ¬𝑃 から矛盾が導かれた時に結論できるのは ¬¬𝑃 に過ぎない。 𝑃 を結論したければ、その数学的エンティティを現に構成する必要がある。

これは数学の哲学に関するひとつの哲学的立場となっており、構成主義 (Constructivism) ・直観主義 (Intuitionism) などと呼ばれる(構成主義と直観主義は厳密には同一ではないようだが、それを説明するのは筆者の能力を超える)。

構成的解析の和書を探すことは難しい。本書第Ⅱ部で紹介されているのは Bishop, E. & Bridges, D. (1985) Constructive Analysis だった。

超準解析 (Nonstandard Analysis; NSA) は、標準的な実数解析に加えて無限小と無限大に市民権を与えた解析理論である。

無限小 (infinitesimal) とは何なのか。なぜそのようなものを解析学に持ち込みたいのか。そのようなものを持ち込んだ数学は正当な数学なのか。

なぜ、という質問は、物理学の経験のある人であれば分かりやすい。電磁気学や熱力学でdℓや∂𝑉とは何なのか、なぜその等式変形が許されるのか、筆者はずっと疑問に思っていた。しかし、Newton力学に端を発する微分積分は、直観的には無限小操作である。筆者が小学生の時代は「へいきんのはやさ」と「しゅんかんのはやさ」なるものが教えられたが、「しゅんかんのはやさ」なるものが位置の時間微分で概念づけられることを知るのは、高校生で力学を学んでからであった。無限小操作がきちんと基礎づけられルール化されれば、それは物理学的にも便利なものになるであろうし、直観的にもわかりやすくなるだろう。もしかしたら小学生にも教えられるものになるかもしれない。

そこで、無限小を持ち込んだ数学の正当性が次の問題となる。この正当性は、モデル理論と超フィルター定理が与えてくれる。実数全体ℝ上の関数記号や関係記号などを全て含む1階の言語を考える。この時、超フィルターを使って超準モデル*ℝを構成することができる。*ℝの性質を詳細に調べていくと、アルキメデスの原理を満たさない元の存在が確認され、それらが無限小や無限大と呼ばれることになる。

無限小や無限大を含む演算は、きちんと形式化できる。

無限小 + 無限小 = 無限小
無限小 × 有限超実数 = 無限小

という具合だ。これをさらに押し進めれば、連続性や微分積分といった概念も*ℝ上で定義できる。

超準解析については和書もいくつかある。モデル論をカバーしている数学基礎論・数理論理学の教科書では、超準モデルを構成してみせるところまで導いてくれるものもある。物理学への応用の観点からは中村徹『超準解析と物理学』(日本評論社)が良書ではないかと思う。

(・・・ここまでで構成的解析と超準解析の説明終わり・・・)

超準解析の結果を初等的な数学教育に活かそうと考えた H. Jerome Keisler という数学者が Elementary Calculus: An Infinitesimal Approach という本を書いた(この記事を書いている時に知ったが、オンライン版は無料で公開しているようだ)。そして Errett Bishop という数学者が、その書評を書いた。そう、構成数学で有名な数学者だ。
構成主義者が超準解析に基づく初等計算の本の書評を書いた、というところから、第Ⅱ部の物語は始まったのである。

第Ⅱ部の主役は Ian Stewart と Fred Richman である。 Stewart は一般向けにも本を書いており、和訳されているものも多い。ご存知の方もいるかもしれない。一方 Richman の一般向け著書を見つけることは私にはできなかった。

Stewart の最初の記事には、こうある (p.65):

私は、アメリカ数学会が故エレット=ビショップにジェローム=キースラーの『初等微積分』の書評を依頼して以来、この話題について何か書いてみたいと思っていた。あの依頼はマーガレット=サッチャーに『資本論』の書評を頼むようなものだ。

超準解析が持ち出す構成不可能な無限小や無限大なる概念を、構成主義者の急先鋒である Bishop が受け入れるはずもなかった。 Bishop の書評が非常に批判的だったことは想像に難くない (Wikipedia の Ciriticism of nonstandard analysis も参照)。 Stewart は構成的解析と超準解析をできるだけ第三者的な審判の視点から評しようとするのだった。

Stewart は、構成的数学を数学者から自由を奪う急進右派に、超準解析を自由奔放に振る舞う無政府主義者に例える。その実、超準解析が数学教育や物理学に応用を持つ一方で、構成的数学は哲学的な立場を提供するも実用的な応用は全く見つけられないと主張する。 Stewart が超準解析寄りな立場であることは明白だ。

Stewart の評に Richman が反論した。
 Stewart は Bishop の本にある
「フェルマーの最終定理が真なら {0}, 偽なら {0, 1}」となる集合𝐹
について「胡散臭い」と文句を言い、構成的解析の問題意識からナンセンスさを主張する。
Richman は、好むと好まざるとにかかわらず𝐹は計算可能な関数の値域なので無視することはできないと主張する。当時はフェルマーの最終定理が証明されていなかったので、𝐹の最小上界を計算することができなかったのだ。今Stanfort Encyclopedia of Philosophy の Constructive Mathematics の項を見るとフェルマーの最終定理が Goldbach 予想に変わっていた。反例が提示されれば計算して検証できるような未解決予想であれば、なんでも良い。
Stewart の構成的解析の問題意識から根こそぎ攻撃する試みは、失敗していると判断するのが妥当だろう。

一方で、研究が「役に立つ」かどうかという観点は、依然として重要である。 Stewart は、超準解析が標準的な解析学に価値を加えたわけではないことを認める一方で、微妙な計算を膨大な道具立ての裏に隠して我々に綺麗な概念を厳密な裏付けとともにもたらしてくれるという。

概念の力は細部の帳尻合わせを避けることから生まれる

という主張だ(p.83)。

私としては、物理学的なバックグラウンドを持つ者として、どうしても超準解析に肩入れしたくなってしまう。物理学者はとかく数学者に「数学をわからずに適当な扱いをしている」と批判されることが多い。Diracのデルタ関数などはその著名な一例だ。このような批判も、超準解析の元では物理学者の直観的な議論が厳密性に裏打ちされてできるのではないかと期待してしまうのだ。
一方で、構成的解析はコンピューターや計算可能性理論と非常に相性が良いように思う。 Chaitin のように実際にプログラムを構成されてしまうと、ぐうの音も出ない。私は、 Stewart とは意見を異にするが、構成的解析が提供する哲学的立場も概念を創出する可能性を秘めていると思う。そしてその可能性は、コンピューター全盛時代である現代においては、数学界で見直されつつあるのではないか。

さらに加えて、予算の話もある。 Stewart の2回目の論考には以下の記述がある (p.83):

たしかにCAだけを攻撃するのは不公平である。数学には、もっと批判されてもいい研究分野がたくさんある。それらの分野は取り残された水溜まりのように生き残り(予算当局者に善意はあるが分別がなく適切な人々に適切な質問ができないため「資金たっぷりの水溜まり」という場合もある)、目立たないようにして生き延びている。構成的解析は挑発的なので目立ってしまう。

これはすなわち、数学という学問に与えられた予算を数学内の各研究分野にどのように配分すべきか、という問題になろう。
この問題については、第Ⅰ部の論争を題材に考えるのがより適切と思うので、そちらに移ることにする。

数学の健康

第Ⅰ部の物語は、著名な数学者 Mac Lane が数学の健康について問題意識を発信したことに端を発する。 Mac Lane がやり玉に挙げた例の中に数理論理学 (Mathematical Logic; 日本でいう数学基礎論と重なるところも大きい) があったため、数理論理学の専門家の反発を招いた。

Mac Lane の問題意識はこうである。
近年の数学は、各研究分野に専門化しすぎている。数学者は、その分野に専門化しすぎるあまり、その分野が袋小路に陥っても専門を変えることなく同じ分野にしがみ続けている。
この傾向に拍車をかけているのは、業績を論文で評価する圧力と、問題そのものの大切さより難問を解くことに重点を置く価値観に起因する。

その典型例として数理論理学が槍玉に挙げられている(p.6):

数理論理学は数学の基礎に対する当初の関心をほぼ完全に失っている。研究者の一部は、概念的な興味よりも、自分たちにも難問が解けることを実証することに躍起である。

そして、専門分野の研究がバラバラに進まないようにするために、今後の数学の進むべき方向について大まかな合意が必要であると主張する。また、研究機関の評価指標を出版物の数によらないものに見直すことを提言している。

Mac Lane に対して Browder, Drake, Smoryński の3人の数学者が順番に反論した。

Browder の主張は概して、数学は専門化によってこそ手法の深みや真の応用をもたらすので、現状は問題ではない、というものである。ただし、一般性の形跡があればそれを認識する必要はあるとのことである。

Drake の主張は、やり玉に挙げられた数理論理学の専門家として、数理論理学は数学の基礎と未だに明確なつながりを持ち続けていると主張し、その説明を試みている。この説明はちょっとした集合論入門になっており、非常に難しい。

Smoryński の反論が、 Mac Lane の立場をもっとも根元から攻撃している。 Smoryński は、 Mac Lane が数理論理学と数学の基礎づけの関連を誤解しているとして正し、かえす刀で数学一般についての Mac Lane の哲学を

権威者のドグマ以外の何ものでもない

と厳しく批判している。

Mac Lane の主張は、数理論理学者たちの反論を通じてより明らかになってきた。それは、おおよそ以下の3点に大別できる。
数理論理学への期待:数理哲学 (Philosophy of Mathematics; 数学の哲学) の観点からは、集合論やZFCに限らない数学の基礎づけ(例えば圏論)を比較検討すべきであり、それは数理論理学者に残されている宿題のひとつである
数学の健康について:数学の健康を理論計算機科学など他分野への応用に求めるのは不適切である。また、過度な専門化を避け数学の分野の間の結合を大事にすべきである
数学研究の評価について:数学者の業績は出版物の数ではなくアイデアの中身で評価すべきである(これは最初の記事から最後の記事まで一貫している)

最後の点については Smoryński も同意する。 Smoryński 自身も出世第一主義者に
「成功への道はその分野の有名人が手掛けながら未解決に残されている問題を探すことだ」
とアドバイスを受けたという経験があったのだ。
一方で、数学はあまりに気軽に行えてしまうので、数学上のある行為が享楽のための行為なのか研究の価値のある行為なのかは、分けて考える必要があると述べる。そして、研究の哲学的な価値については数学者の間で話し合い続ける必要があると主張する。

第Ⅰ部を読んで、これは数学に限らず学問一般に通ずる問題意識であると感じた。

学問の健康

Mac Lane の数理論理学・数学への考えを、学問一般に置き換えて考えてみよう:
学問への期待
学問の健康について
学問研究の評価について

これらは一般的に妥当な議題となる。『学問』の代わりに『物理学』『哲学』その他いかなる学問分野を置き換えても同様の議題が考えられるだろう。

そもそも、趣味と学問の違いは何だろうか。

Smoryński は、『享楽のための行為』と『研究の価値のある行為』を分けて考える必要性を主張していた。趣味とは『享楽のための行為』であり、学問とは『研究の価値のある行為』である。 Smoryński が『享楽のための行為』として例示した行為は以下のようなものである (p.50):

フェルマーの定理に関するハロルド=エドワード (Harold Edward) の本がでたとき、私はベッドの上に何時間も座って、電卓を使って円周等分多項式の因数分解の計算をしたことを思い出す。それはとてつもない享楽であって、それをするのに特別な理由はいらなかった。今世紀の偉大な哲学的論理学者の1人ポール=ベルナイス (Paul Isaak Bernays) は、ブール代数中毒者であると聞いたことがある。一度ブール代数で遊び出すと、何日もそれを続けたものだったらしい。

たいへん高尚な趣味であると敬服してしまうが、それでも『享楽のための行為』に過ぎないことに変わりはない。

では、当該行為が『研究の価値のある行為』であるかどうかをどのように決めれば良いのだろうか? Smoryński は研究分野について、次のようにも主張していた (p.51):

あまり知識はないが力のあるよそ者の攻撃に対し、自分の専門を守らなければならない役が次にはあなたにくるかもしれない。

しかし、自分の専門分野自体がもはや『研究の価値のある行為』に該当しなくなっていたとしたらどうだろうか?その場合、自分の専門を守る行為は Mac Lane の主張する『頑迷な専門化』に陥っているとみなされよう。 Stewart の言う「資金たっぷりの水溜まり」の専門家同士であれば、研究の価値がなくても自分の専門を守るインセンティブが働いてしまう。
「研究成果の評価は、同じ分野の専門家によってしか行えない」
という主張は、この観点から不適切だろう。

『権威者のドグマ』を避けながら『研究の価値のある行為』の評価を行うには、その評価を世間に開いた場で問うことが不可欠になろう。

応用分野を持つ学問では、資本主義と市場原理が評価を行ってくれる。該当分野に投資が行われるかどうか・スポンサーが付くかどうか等で判断できるということだ。

では、応用分野を持たない学問は『研究の価値のある行為』なのだろうか?

この質問に対する Mac Lane の答えは明確に "Yes" である。 Browder の反論に対する Mac Lane の再反論を見てみよう (p.14):

ブラウダーが、抽象的な分野では研究から実際の応用までにある程度時間がかかるというのを見て、私はぞっとした。良い数学であるためのテストは、応用性のみによってなされるものではない。抽象的な分野では、無限の時間を待つことになるかもしれない。すべての概念がいつかは応用可能になるといった要求で、数学を縛るべきではないのだ。

この主張は、
「基礎研究は、短期的には社会の役に立たなくても、長期的には人類の叡智に資するのです」
等という応用の程度問題の主張とは、明確に一線を画している。無限の時間を待っても応用不可能な『研究の価値のある行為』が存在することを肯定しているのだ。数理論理学の評価を数理論理学専門外の数学者が下す一方で、数学全般の評価は数学者内で閉じると主張することが、果たして正当化できるだろうか?これでは、権威者のドグマによって研究の価値が決められていると言われても仕方がなかろう。

一般的には、『研究の価値のある行為』には何らかの応用を期待するのではないだろうか。しかしもちろん、応用までにかかる時間や社会的貢献の大小・種類などに様々なバリエーションが認められる。数年後に日本社会へ応用が見込める学問から、数十年後に地球規模で応用が期待される学問など、様々あるであろう。
しかし、学問を名乗りながら『享楽のための行為』を行い資金を得て生き延びる分野は、世間に開いた場で評価されることで淘汰されていくことが期待できよう。まさにこの点が重要なのだ。

『享楽のための行為』に学問を名乗らせないことが、学問の健康なのだと思う。

学問の健康のために

2019年11月6日に、物理学者の谷村省吾氏が『一物理学者が観た哲学』を公開された。これは物理学者による哲学批判といった趣きで受け止められ、『谷村ノート』とも呼ばれるようになり、話題を呼んだ。

私は、『研究の価値のある行為』を専門外から問うとはまさにこのようなことだと思う。『研究の価値のある行為』が世間に開かれた場で問われなければ『享楽のための行為』を淘汰できない。私個人の意見としては、哲学が担う社会的役割は未だ存在し、それは物理学とも数学とも矛盾しないと考えているが、谷村氏による批判とそれに付随する社会的議論は、それ自体が有益な議論だったろう。

同様に、 Mac Lane が数理論理学を筆頭とする一部数学分野に行った批判とそれに付随する議論は、それ自体が有益な議論だったと言える。

物理学も数学も、その研究の価値を世間に開かれた場で主張し続けなければならない。その結果、研究の価値がないとみなされた分野は淘汰されていく。哲学の研究の価値を決めるのは哲学者でも谷村氏でもない。数理論理学の研究の価値を判断するのは数理論理学者でも Mac Lane でもない。社会である。

社会に研究の価値を主張するにあたって、高度に専門化した研究分野にとって避けられない課題がある。そもそも社会にとってわかりやすく説明することが難しいという点と、わかりやすいと銘打った誤った言説の流布である。物理学では相対性理論・量子論、数理論理学では不完全性定理が、この両方の課題に苦しんでいる著名な例だろう。この課題解決自体が一大研究分野のようにさえ思える。しかし、専門分野内でその価値を判断するというのは、権威者のドグマ以外の何ものでもない。いかに険しくとも、この課題に取り組み続けることが、学問を健康に保ち続ける唯一の方法に思われる。
一般向けの書籍を出版する・Web サイトで記事を公開する、などは代表的な主張方法だろう。最近では YouTube などの動画配信サービスを利用する方法も普及してきたようだ。

残念なことに、学識者の方が社会への説明を諦めてしまうケースが多く見受けられる。ひどいケースでは、学識者が一般市民には理解できない内容だと社会を見下すことすらある。
関連して、Mathpedia運営氏のツイートを拝読し感銘を受けたので、引用させていただく。

また、掛谷英紀氏の左翼エリートの選民思想(前編)からも関連する記述を引用させていただく:

高学歴者の多くは、本音の部分で労働者階級を馬鹿にしている。彼らは低学歴者に対する差別意識を大なり小なり持っている。そのことは、ネットの匿名言論空間を観察すればよく分かるだろう。私自身も学歴エリートの一人なので、そうした空気を肌身で感じてきた。受験戦争は、勉強ができるか否かが人間の価値を決めると錯覚させる魔力を持つ。私自身、そこから抜け出せたのは30歳を過ぎた頃だった。現実には、50歳を過ぎてもそこから抜け出せていない人は多くいる。

学歴エリートについては、エリート個々人の問題というよりは社会のしくみ上の問題である。以下の記事で学んだ内容をまとめた。

しかし、谷村氏のように学問分野横断的な批判を恐れずに行える学識者、Mathpedia運営氏のように専門的な学問分野を市民の手の届くところにしようと努力される市民の方をお見受けするたび、学問の健康を維持するためにできることはまだまだあるのだと実感する。

本稿が、学問の健康にいくらか資することができれば幸いである。

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