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自足の道

植物は人を幸せにする。
何となくではなく実際に心に科学的な影響を与え、
人間の脳に幸せ物質を形成させる働きがある。
土を変え、水を与えて、優しい言葉で話しかける。
返事の言葉はないけれども、蕾を作り、やがて花を咲かせることで
この世の奇跡を伝えてくれる。
相手を思いやることの大切さを教えてくれると同時に、
自分を思いやることの大切さにも気づかせてくれる。

自足すること。
自分の幸せは自分で探し、
自分で創るのである。

植物は自分で勝手に”やっている”。
自分の好きなように、思うままに彼ら自身を”やっている”。
コンクリートだろうが、何だろうがお構いなし。
そこの隙があれば自由気ままに飛び出してくる。
わずかな水や陽の光をうまく使って、
自分のできることを”自分なりに”やってしまう。
誰にも教えてもらうこともなく、誰にも聞くこともなく。
まさに”自然体”である。自分だけの世界に没入している。

僕は花も好きだけど、
(最近までオステオスペルマムを育てていた。
100均で買った安い土がよくなく虫が湧き枯れてしまった。
土はちゃんとしたの買わなきゃね。勉強になった。
今は6年くらい前に友達にもらったポトスがまだ元気で
部屋で育てている。)
本当に何の世話もされていない野草を見るのが好きだ。
”生きている”感じがビシビシと伝わってくる。
人間とはまた別の気配を纏っている。
地球のエネルギーネットワークにリンクして、
余計なことは考えずにただただ目的を果たすため
スクスクと必要なものを備て成長していく。
自らをどんどん増やして生い茂っていく。
人間に言い換えるとたくさんの顔を持つ
マルチクリエイターみたいな感じだろうか。
とにかく放っておくとどんどん増えていく。
やがて生茂りすぎて手に負えなくなる。

僕はそんな風になりたい。

勝手に自分に必要な栄養を見つけて、
雨が降ったらその水を飲み、
晴れたら光合成をする。
全部勝手にやる。自由に。フリースタイルで。
誰にも見つけられなくても、
誰にも構ってもらえなくても、
勝手に自分が喜べることを作り出して
そこに価値を感じ、幸福を感じ、使命を感じ、
生きていく。
自足の精神の究極系を植物はやってのけている。

高級なものを手に入れる、
というだけには何ら魅力を感じない。
むしろ手に入ってしまった、という
”憧れのスーパースターが実はしょうもない人だった”
と知るような寂しさがある。
知ってはいけなかったことを知ってしまうような
そんな切なさである。

僕は金と交換してそういうものを手に入れるより、
自分で創りたいのである。
自分の手でこねくり回して、
あーでもないこーでもないと試行錯誤をしながら、
欲しいものを自分で創りたいのである。
その過程に生じる好奇心や幸福感が自足そのものである。
これを知ると今まで不要な様々なことに
惑わされていたことに気づく。
街に出るとそういうもので溢れている。
(資本主義社会が作り出した虚構の幸せである。
でも中にはそーゆー虚構感を感じない
ブランドやメーカーがある。
そーゆーところでしか僕は買い物をしない。)

自分の時間を使い、自分の手を動かして、
自分のために何かを創ること。
”モノ”自体に価値があるのではなく、
その過程にあるウキウキやワクワク、
作った後の達成感にこそ愛と煌めきに満ちた
価値があるのである。

僕は最近料理も結構するのだけど、
自分で料理をする喜びを知ると、
これ以上に美味しいものはないと感じる。
もちろん外食も楽しいし、美味しいよ。
僕も大好きだ。
でも自分で作って自分で食べることは
それとは全くジャンルが違う。
食欲だけでなく、心の潤いも満たされる。
まさに自足である。
自分の幸せを自分で創るということ。
絵も音楽もこのnoteも
全ては自分を喜ばすため。
自足のためにやっているだけである。

100人いれば100通りの幸せがある。
人それぞれ違う。
一般的にあるような幸せのイメージに合わせにいく必要は全くない。
それをすると心のどこかがアレルギーを起こし、
全て揃っているはずなのに何か心が空っぽ、
という不幸を招いてしまう。
自分のコンパスをきちんと持ち、
心のセンサーとうまくコンタクトできるよう日々自分と対話する。
そうしていくことで自分の喜べるツボを知っていくのである。

自足すること。

これこそが僕が興味があることであり、
これについて突き詰めていくことが人生だと思うのである。

松ばやしを抜けて(雪の浦海浜公園・長崎)

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