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麦飯にはなぜとろろをかけるのか?(東洋経済オンライン記事補足)


一ヶ月前に公開した東洋経済オンライン記事、補足するのを忘れていました。

19世紀の三都(京、大坂、江戸)では、麦飯にとろろやだし汁をかけて食べていました。しかも農村では質素な食事であった麦飯が、三都では贅沢品だったのです。

なぜ三都では、とろろやだし汁をかけた麦飯を贅沢品として食べていたのか、その理由について書いた記事です。

その背景には、三都の人々は貧しい人も富める人も「白飯」を常食としていた、という事情があります。

それでは三都では「いつ」「なぜ」白飯が標準食となったのでしょうか。この点について補足説明したいと思います。

1.いつ三都で白米食が普及したのか

白米食が普及すると、糠に含まれていたビタミンB1の摂取が不足し脚気患者が増えます。麦飯が健康(養生)によいという考えが江戸時代に広まった背景には、この脚気の存在があったのでしょう。

江戸における脚気のことを「江戸患い」といいました。1699(元禄12年)自序の香月牛山『牛山活套』に、江戸に行くと江戸患いになるとの記述があります。「江戸などの都会では、おおよそ元禄時代頃から白米食が中心となります」という東洋経済オンライン記事の記述は、この『牛山活套』を根拠にしています。

白米食の普及により登場する商売もあります。各戸を回って玄米を臼で搗き白米にする米搗き職人です。大田南畝『一話一言』の1727(享保12)年の記述に「米春」=米搗き職人が現れます。

白米食が普及し糠が大量に生産されるようになると、「糠問屋」という糠専門の商人が現れます。平野雅章『江戸食の履歴書』によると、1716(享保元)年には商人組合の中に糠問屋の記述が現れるそうです。

2.なぜ三都で白米食が普及したのか

東洋経済オンライン記事では、三都で白米食が普及した理由として、燃料費が高かったから、割麦は「いやな匂いがする」からという2つの理由をとりあげました。

私は玄米を鍋(シャトルシェフ)で炊いて主食としていますが、夏だと沸騰させてからシャトルシェフで40分-50分保温(途中一回加熱)します。

サーモス公式サイトでも、シャトルシェフによる玄米の炊飯は沸騰時間+45分以上保温+再加熱5分となっています。

一方、白米は沸騰時間+8分加熱+15分保温。

ガスが普及するまでの炊飯用の燃料は薪でした。江戸時代になって三都に人口が増えるようになると、より多くの薪を、より遠くの山村から都会に送る必要が生じます。そのため、燃料費が高騰していきます。

玄米は白米に比べ燃料費がかかるので、燃料費の高騰とともに三都では玄米食から白米食へと移行したと、有薗正一郎(『近世庶民の日常食』)や宮本常一(開国百年記念文化事業会編『明治文化史第12巻』所収「飲食と生活」)は主張するのです。

次に、なぜ三都では麦飯ではなく白米なのかという理由ですが、いったん大麦を煮てえまし麦にしてから白米と炊く麦飯の場合、えまし麦を煮るための燃料費がかかります。里山で燃料を自給できる農家ならともかく、燃料費の高い三都では非現実的です。

そこで三都では白米と同じ燃料費で済む割麦(大麦を臼で挽いて、米並の大きさに砕いたもの)を使った麦飯を食べるのですが、割麦には大麦特有の「いやな匂い」「ねばねば」が残ります(えまし麦はいったん煮て煮汁を捨てるので、匂いとねばりが消える)。

その匂いやねばりをマスキングして食べやすくするために、とろろをだし汁で伸ばしたとろろ汁や、だし汁や薬味をかけて食べたわけです。

現在の麦飯は、匂いもネバネバもない精製された押し麦を使用しているので、とろろをかけなくてもおいしく食べることができるのですが、割麦を使っていた昔の名残で、現在も麦飯にとろろをかけるのだと思います。

さて、三都で白飯を食べる理由は、「麦飯だと弁当にしたときに腐りやすいから」であるという俗説を聞いたことがあります。

この俗説はガセネタです。農山漁村文化協会『日本の食生活全集』は各都道府県における大正時代-昭和初期の聞き書をまとめたものですが、各地の農村山村において、麦飯の弁当が使われています。

3.非常に難しい江戸時代の米価推定

“当時の穀物の価格は、年度や季節によって大きく上下するので一概には言えませんが、例をあげますと、曲亭馬琴の1834年の日記における割麦の値段は、最も安くなる収穫期の5月11日において1両あたり6斗1升。白米の値段は収穫期の10月18日において1両あたり6斗2升(『馬琴日記 第四巻』)。必ずしも安くない麦飯に、とろろ汁やだし汁をかけて食べるので、都会における麦飯は贅沢品となっていたのです。”

「麦飯と言えばとろろ」日本の定番ご飯の裏事情

”当時の穀物の価格は、年度や季節によって大きく上下するので一概には言えません”と、奥歯に物が挟まったような言い方になっていますが、実際のところ江戸時代の米価は上下動が激しかったので、「米・大麦の価格はこうでした」とは簡単には断言できないのです。

三好一光『江戸東京生業物価事典』における一番詳細な米価記録は1787(天明7)年のものですが、以下のように季節により激しく上下しています。

三好一光『江戸東京生業物価事典』より、100文で買える米の量

最高値は4-5月の100文あたり3合、最安値は10月上旬の1升2、3合。なんと4-5月は収穫期(10月上旬)の4倍もの値段になっていました。

大麦の値段については『江戸東京生業物価事典』に記載はありません。小野武雄『江戸物価事典』には1757(宝暦7)年から1772(明和9)年までの6月の米と大麦の価格が載っていますが、米は大麦の約2倍の値段です。

大麦の収穫期は春なので、6月は米が高く、大麦が安いという状況が生まれるのです。月によっては同等になったり、秋には逆転することもあったのでしょう。

”当時の穀物の価格は、年度や季節によって大きく上下するので一概には言えません”という意味がおわかりいただけたでしょうか。

大坂の医師杉野権兵衛が書いた1802年の『名飯部類』には、麦飯は養生家(健康意識の高い人)とともに倹約家もたべるとあります。季節によっては麦飯のほうが白飯よりも安くなることがあったからでしょう。

ちなみに昭和初期にラジオが普及した際には、1日6回米相場の放送があったそうです。米問屋はその値を聞いて米を買い入れたり売ったりしたとか(大田区教育委員会編『大田区の文化財第13集 古老聞書』)。まるでデイトレーダーですね。

江戸時代どころか昭和初期まで、米の値段は激しく上下していたのです。現在のように米の値段が安定したのは、1939(昭和14)年の米穀配給統制法施行により、価格統制がなされるようになってからだそうです(『大田区の文化財第13集 古老聞書』には昭和15年の価格統制からとありますが、14年の間違いでしょう)。

戦争が米価の安定を産んだのです。


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