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そこには確かに愛はあった

こんばんは、かしはらです。
現在実家に帰省中です。寒すぎんか、岩手。
父はどうやらポークチャップとチャプチェがお気に召したようで、大量に作ってもぺろりと平らげてます。
その調子で野菜もちゃんと食べて欲しいんですけどね。かぼちゃもちゃんと食べてくれ。
新幹線に乗りながら、ふと思ったことと、1年前はそういえばと思って書いてみます。


人混みを避けるため始発の新幹線に乗ったのにも関わらず、乗車率の高さにうんざりした。眠気と戦いながら推したちの動画をみて過ごしていた。福島、仙台を越え、一ノ関に入った途端、目に入った光景は真っ白。霧が深すぎて遠くが見えなさすぎた。

乗車率が高すぎたのと隣の席に座られてしまったため、なかなか席から抜け出せず。ちょうど隣の席の人が下車した一ノ関で父親に新幹線に乗っている旨を連絡。当たり前だがすぐに迎えに来れる訳はなく、30分ほど駅で待ちぼうけを食らう。あまりにも寒すぎて幼馴染にLINEした。

父親が迎えに来た頃には霧はだいぶ引いて、空は青空が見え始めていた。
運転中の父がふと漏らす。

「ちょうど亡くなった日も晴れてたな」

1年前、母が居なくなったあの日も空は晴れていた。
一周忌のために私は帰省していたのだ。

ちょうど1年前、母はいわゆる昏睡状態になっていた。

緩和病棟に移る当日の朝、今まで動くことは全くなかった母が、急にベッドから転落したらしい。
かなり興奮して暴れていたらしく、大人数で抑えて、現在は鎮静剤で落ち着いたとのことだった。休憩中、着信が来ていることに気づき、折り返ししたら父とDrからその経緯を聞くこととなった。
頭も打ってなさそうだし、検査をして骨も折れてないと。むしろ暴れる元気があったのかとさえ思った。その時までは。

諸事情で勤務が長引き、さて帰ろうとした矢先、病院から電話があった。どことなく嫌な予感がしながらも折り返しする。応対した看護師より、急遽Drと父、伯父、叔父がカンファレンスしており、落ち着き次第、再度Drより連絡すると言われた。
10分ほどだったか、再度Drより連絡があった。簡単に言ってしまうと、鎮静剤を打ってからしばらくは落ち着いていたが、夕方頃から呼吸がおかしく意識がない。それで急遽カンファレンスを行っていたのだと。

つまりは、そういうことだった。母の命は長くない。

全身の血の気が引いた。頭では理解しているつもりではあったのに、感情が全然理解をしてくれなかった。
いずれは来る、なんならそれは年内だろうと判断し、介護休業を申請した矢先に、だ。あまりにも急すぎた。

医師からはすぐに慌てて来なくても良いが、近いうちにその日は来ると覚悟した方が良いだろうといった話があった。
直ぐ横で聞いていた職場の先輩がすぐに上司に掛け合ってくれた。そして、今から岩手に帰りな、と。

もう何も考えられず、とにかく新幹線の座席予約をしようと思っても手が震えて上手く操作が出来ずエラーばかり出てしまう。
座席予約を取ることは諦めて、東京駅まで行くことにした。運良く、終電に間に合い発車5分前に新幹線に飛び乗ることができた。
新幹線に乗りながらも、生きた心地はしなかった。いつもはゆったりと動画でもみて過ごしているところだが、そんな気にもなれなかった。3時間の距離が非常に憎かった。
病院の最寄り駅で降り、タクシーを拾って病院に向かった。病院に着いたのは23時をとうに過ぎていた。

Nsに声をかけ、母のいる病室に案内される。
入ると伯父がいた。私が来たことに驚いていたようでもあった。
母はまだ息をしていた。だが、明らかに呼吸は浅い。
いつ呼吸が止まってしまうのか、気がきでならない。結局その日は一晩中寝ることができなかった。

翌朝、緩和ケア科の主治医と会うことができた。
そして昨日のカンファレンスの詳細を聞くことになる。大まかには電話で言われた通りだったが、その時の父の様子等も話してくれた。
それはもう大泣きしていたらしい。この時私は「お父さん、泣けるのか」と不謹慎ながらに思った。
思えば物心ついたころから、またはそれ以前から泣いていた姿など見たことがなかったからだ。
感情豊かでよく怒っていた母に比べ、多少愚痴のように怒ることはあれど、大きく負の感情を出す人ではなかったからだ。

一通りの説明を聞き、医師から提案をされた。
点滴を外すか、量を減らすか。
体の機能が落ちている今、現在の量で点滴を続けると体が浮腫んでしまう。それは私もわかっていた。
だが、外してしまうという選択肢を選ぶことはできなかった。おそらく医師はそれをわかっていたのだろう。
500ml/日→200ml/日にかえて滴下されることになる。

緩和病棟は静かだ。時折テレビやラジオをつけながら母と共に過ごした。
午前は病室にいて、午後から一旦自宅に帰り、夕飯や入浴を済ます。夕方からまた病室に戻り、母の近くで過ごす。
期間にしては5日もなかったが、葬儀中含めると約2週間くらいは睡眠時間が明らかに足りなかった。
病室にあるソファーベッドで寝るとしても、せいぜい仮眠がいいところだ。

血圧も緩く低下しており、ウロバッグ内の排尿量も100〜50ml/日くらいしか見られなくなった頃、お風呂に入れそうだという話をされた。
体調が悪化した夏頃から湯に浸かることができてなかったし、希望としてお風呂に入れてあげたいということを伝えていた。
少し血圧が持ち直した日の午前中、シャワー浴という形にはなったが、母は入浴することができた。
母が亡くなる15時間前のことだった。

入浴前、面会に来た伯父に、これからお風呂に入ることを伝えた。そして同時に、今夜あたり息を引き取る可能性があることもやんわりと伝えた。
あくまで私の経験則でしかないが、入浴時の血圧変動でそのまま血圧が下がっていってしまうことが十分にあり得たからだ。
それでもすっきりできるならいいじゃないか、きれいにしてもらえよと母に声をかけて伯父は帰っていった。

その日の夜、夕方頃から呼吸音がおかしくなった。決して浅く早い訳ではないが、明らかに痰が絡んでいる。
仮眠しようとしても喘鳴が気になって眠れない。少しうとうとして、気がついた時には喘鳴が強くなっていた。
ちょうどNsもラウンドで来ており、2人で状態を確認する。橈骨動脈での脈拍が弱くなっている。呼吸も浅い。下顎呼吸も始まっており、夕方から始まっていたのは死前喘鳴だったのだ。血圧計で血圧を測ってもエラーだった。
夜中の2時30分。母が息を引き取るまで1時間前の事だ。

急ぎ病室を飛び出し、父に連絡する。いつもは起きないはずの父が電話に出た。
「呼吸がおかしい。すぐに来て」
すぐ行く、と電話が切られた。そのまま伯父と伯母にも連絡する。
伯父はすぐ出たが、伯母はなかなか出なかった。伯父が途中で叔母を起こして向かってくれることになった。

父は15分でやってきた。いつもは自宅から病院までは20〜30分ほどかかるのだが、相当飛ばしてきたらしい。
母の手を握って、ずっと名前を呼んでいた。
次第に無呼吸の時間が長くなり、呼吸間隔が空きはじめた。

伯父と伯母も病室に到着した。
その瞬間、母の顔が泣いているように歪んだ。
そして大きく息を吸って、その息が吐き出されることはなかった。


人間はどうやら心臓が止まっても3分ほどは耳が聴こえるらしい。
その3分の間、父は泣くのを我慢していた。
「ここまでがんばったな」
「疲れたな」
「おつかれさま」
「ありがとうな」
ずっと母に問いかけていた。
そして3分過ぎたあたりから、静かに泣き始めた。
父が泣く姿を、初めて目の当たりにした。

父と伯母が泣き、伯父が顔を歪めている。
私は泣くに泣けなかった。そのことについては以前も記事に書いている。

慰める側になったというものもあるが、少しほっとした部分もあったのだ。
ある種、病という苦しみから母は解放された訳で、「もう苦しくないよ、よかったね」と安心したところが大きい。

しばらくして、当直の医師が来て、医学的に母は亡くなったと診断された。
そこから誕生日にプレゼントしたワンピースに着替えさせてもらい、薄化粧をしてもらった。薄紅を引いている時、なんだかまた起きてくれるんじゃないかとそんな気持ちになった。

母と一緒に病院を出る時、空は晴れて朝日が登り始めていた。



そこからはバタバタだった。葬儀会館についてからは契約等の説明を受けて、職場にも連絡を入れて、やることやって一息ついたと思ったら今度は弔問客の対応をしなければいけない。

そこで1つ、問題が出てきた。
家にいる祖母を母と合わせるかどうかだ。

元々結婚以降同居していたとはいえ、母と祖母は仲が良い方ではなかった。いわゆる嫁姑問題が我が家にはあった。
母もなかなかではあったが、父方の家系は更に気が強ければ言葉も強い人が多い。私が生まれてからは影を潜めたらしいが、2人の間には溝があったことは知っていた。

当初私は会わせるつもりはなかった。
2人の関係性を知っていたし、祖母も90を超えた高齢だ。伝えているとはいえ、実際に姿を見てショックを受け倒れられても困る。
父もおおよそそんな考えでいたらしい。足も悪いし無理に会わせなくてもよいのでは、と。
ただ、これに猛反対したのが叔母達だった。
仲が悪いことは分かってる。ただ、区切りとして必要ではないか。
最終的には押し切られる形にはなってしまったが、翌日の納棺前に、祖母は母と対面した。

横たわる母の姿を見て、祖母は大きく泣き始めた。
何度も手を合わせ、死に水を含ませた。唇に引いた薄紅がとれるほどに。
「ごめん、ごめんや」と何度も呟いた。
そろそろいいんじゃない、と私や叔母が止めようとしてもなお続けた。
かれこれ30分ほど繰り返した後、ようやっと落ち着いたようだったが、帰る間際、また泣き始めた。


祖母に限らず、父も仲が悪い方だと思っていた。
中学から高校にかけては互いが互いの悪口を娘に話すという具合で、何でこの2人は結婚したんだ?と思うくらいには喧嘩もしていた。実際に離婚も考えたことがあると母から聞かされていたこともあった。
ただ、私が実家を出て一人暮らしを始めてからは穏やかになったのか、飼い始めた犬がうまく繋ぎ役をしてくれたのか、喧嘩することは少なくなっていったようだった。
時折、2人で温泉に行ったんだよ〜と電話が入ることもあった。

父は家事が出来ない。出来るのは掃除くらいだ。料理はからっきしだった。
そんな時よく母は電話してきて「お父さんは何もしてくれない!」とプリプリ怒っていた。
介護もこりゃ無理そうだなと判断し、食配サービスや訪問介護を導入することも視野に入れていた。導入するまでの間のつなぎとして、私が母を介護するために介護休業を取得しようとしたのもそれが理由だった。


これを書いている現在、どうやら母が亡くなって1年となる日は大雨らしい。父が新聞の天気予報欄を見せながら「100%だ」と。
1年経った今、伯父は再びがんが見つかって入院しており、もう長くはないそうだ。
伯母も体調を崩していて相当大変だとかと風の噂で聞いた。
ただ、明日の雨は午後から止むらしいぞと、この1年、父を見守ってきた叔父がスマートフォンで天気予報を見ながら言った。
雨は、いつか止むのだ。悲しみもいつか止む。

時間が経つにつれて、悲しさというより「寂しさ」が強くなっている。それは父も同じなようだ。
母が亡くなってからの1年、父はよく泣いた。
時折酔っ払った拍子に、昔のアルバムを見て泣いて、娘の私に電話をしてくるということも多くあった。
今でもなお、アルバムを見ると泣きそうになるらしい。

そんな姿を1年見てきて私は思うのだ。
母は本人が思っていた以上に、父や祖母に愛されていたのだと。
別れの瞬間、そこには確かに愛はあった。

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