「自己紹介」=「経験」の振り返り(2004〜2006…陰)

自己紹介しながらこれまでの経験を振り返るシリーズ(勝手にシリーズ化するがw)。第2回は中学時代①です。今だから言える話ですが、「青春」という綺麗事だけではない3年間だったと感じます。まずは陰陽でいう「陰」の部分です。

2004年、市立釜石東中学校に入学。学区は鵜住居、片岸、両石が含まれていた鵜住居小学区の他、半島部の箱崎地区、箱崎白浜地区、内陸部の栗林地区の4小学区であった(当時)。卒業後、山あいにある橋野小中学校が隣接する小中学校へ統合されたため、現在の学区は橋野地区まで含まれている。
前回ページでも述べたが、当時の校舎は現在の釜石鵜住居復興スタジアムの位置にあった。

↓当時の釜石東中校舎(卒業アルバムより)

↓釜石鵜住居復興スタジアム(参考)
…川沿いにある道路を中心にして見比べてほしい…。

部活については、これまで少年野球をしてきたが、経済的な余裕が全くないほか、他の少年野球チームからも部員が入ってきては全く歯が立たないことは明白だったため、消去法で卓球部を選択。(原則、いずれかの部活に所属しないといけないため)
しかし、これが思わぬ悲劇を生むことになる。
今だから公言できるが、「いじめ」に巻き込まれたのだ。
現場は卓球部の部室兼練習場である卓球室(空き教室)。球拾いをすることは当たり前なのだが、何かあると因縁つけて壁際で恫喝される毎日が続いた。
泣き虫だった私は「目がかゆい」と言い訳するがそんな言い訳でやり過ごすのも数日で限界になり、泣き出すことも多くなった。「てめぇの親もぶっ殺す」なんて言われたときには(冗談が通じなかっただけだが)、もう部活に行けなくなると思っていた。
またある日には、自主トレで海岸近くにあるトレーニングセンターから帰ろうとすると走らされ、立ち止まると後ろから自転車で轢かれることもあった。
当時の学校は3年生までが荒れていたことも原因の一つで、相談してからは、当時の校長先生や担任の先生、生活指導担当の先生が毎日のように自宅訪問し、アフターフォローを受けることができた。おかげで不登校にならず、通学することができた。
閉鎖的空間が原因の一つだった卓球室もなくなり、2年からは体育館で練習することができるようになった。
しかし、一度終わっても別なところからもいじめを受けることもあった。体育がダメダメだったために柔道の授業で関節技を決められることもあれば、毎日の掃除でモップの柄で身体を殴打されたり…。この場合、後者はその後に謝罪したが、加害者のお父さんが父の後輩だったことがわかり、報復行為をしたというエピソードがある(それはさすがにやりすぎだが)。
その背景や平和主義で実力行使は時代遅れと考えていた私は、勉強で実力をつけるようにしていった。
定期テストは5教科500点中400点を出せるようになったのは良かったのだが、(反抗期の当てつけなのか)一人勉強ノートのノルマを3ヶ月(?)も守らないなど周りを乱してしまうこともあった。
(勝手ながら)次回は中学時代②で陰陽でいう「陽」の部分を触れたい。ボランティア活動や後々の人生に影響を与える「釜石よいさ」参加や「42キロを歩く会」など、陽だけに荒れた学校からの再生と合わせた記録を振り返りたい。。。

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