見出し画像

これまでの人生で匙を投げた3冊の本

今まで生きてきて、「こりゃダメだ。わからん」と、匙を投げた本が3冊ある。

一冊目は、『子供のための相対性理論』。

確か、小学校5年生の時だったと思う。
父親が急に部屋に入ってきて、
「ほら。これ、お前おもしろいと思うんじゃないか?」
と言って、この本を渡された。

私からねだることはあっても、父親から、このように不意打ちで本を渡されたことなど、後にも先にも、この時だけだった。

『相対性理論』? 
父は何を根拠に私が興味を持つと思ったのだろう。

この後、高校の物理で8点を叩き出す娘を知らなかったとはいえ、物理にもアインシュタインにも、これっぽっちも興味を示した覚えはない。

確かに、読むものがないと、親の部屋で読めそうな本を探し出しては、勝手に読んでる子供ではあった。

お気に入りは、『家庭の医学』。

読むたびに全部自分に当てはまる気がして、怖くなるのに、性懲りもなく、暇になっては引っ張り出して眺めていた。

そんな私も、さすがに『相対性理論はちょっと......』という気持ちだった。だけど、わざわざ父親が持って来た、ということの物珍しさで、なんとなく読み始めた。

しかし、さすがに『子供のための』とうたっているだけあって、いろいろなことが結構わかりやすく解説してあった。

「光よりも早いものができたら、時間が逆行する」
とかなんとかいうところまでは、ギリギリついていった。

そこまでは。

そこから先は、読んでも読んでも理解できなかった。
そして、とうとう放り投げた。
人生で初めて、読むことを諦めた本だったから、今でも強烈に印象に残っている。

二冊目は、高校生の時、タイトルは忘れたけど、吉本隆明の本。

高校生にありがちな、「なんか小難しそうな本を読んでみたい病」に侵されていたのだと思う。ユングとかニーチェとか、そこら辺を適当に選んで読んでいた頃だ。

当時、友達の間では赤川次郎が流行りまくっていた。

ある日、なぜか英語の先生が、
「この夏休みに読んで、印象に残った本を一人ずつあげてください」
と、生徒に命じた。

生徒は次々に席を立って、順繰りに作者名と、作品名を答えていく。

「赤川次郎の〇〇」
「赤川次郎のxx」
「赤川次郎の△△」
「赤川次郎のxx」
「星新一のxx」
「赤川次郎の〇〇」
「赤川次郎のxx」
「赤川次郎の△△」

ほんと、こんな感じだった。

私の順番がやってきた。

「カフカの変身」

なんだかんだ、一番印象に残っていたから、これを挙げた。
そして、他の子達と同じくすぐさま椅子に座ろうとしたら、先生が、
「変身? カフカの?」
と、なにやら反応して、そこからカフカの『変身』について、熱く語り出してしまった。

私は座るタイミングを完全に見失っていた。

「これ、俺たち、発表しなくていいんじゃね?」
「何、〇〇(私)って、そんな難しい本読んでるの?」

クラスメイトは微妙にざわついていた。
私の高校時代の最大の目標は、なるべく目立たなく過ごす、ってことだったのに。

英語の授業そっちのけで、話し続ける先生と、聞き役に、たった一人立たされてる自分に、「こんなことなら私も赤川次郎、って言っときゃよかった」と、恨めしく思いながら時間が経つのをじっと待った。

吉本隆明は、当時好きだった坂本龍一がらみで、名前を知ったと思う。

それで本を手に取ってみたけど、なんだかわかったような、わからないような感じでダラダラと読み続けてはみたものの、「やっぱ、理解できてねーわ、私」と認めた瞬間、読むことをやめてしまった。

最後の一冊は、短大の時の仏教学の教科書。

その短大は仏教系だったので、仏教学が必須課目だった。

教科書は仏教哲学系の本で、「まあ、いうても、仏教は小さい頃から身近にあったから、とっつきやすいっしょ」と思ってページをめくった。

一ミリもわからない。

というか、初っ端の三行すら理解できない。

いや、いや、いや。

そうは言っても、これまで一応「読書好き」で通ってきた私。
高校生にしては、ちょっと小難しい本もまあまあ読んできた。

心を落ち着けて、もう一度、字面を追う。

やっぱり、一行たりともわからない。

ぱたんと本を閉じ、絶望的な気持ちで授業に赴いた。

その先生は授業の第一声で、少し誇らしげに、「この本は僕が書いたんですよ」と言った。

よくみたら、担当の先生は、この教科書の著者だった。

先生は続けた。

「この本は、僕が教えている東大でも長年、教材として扱っています」

......東大生と一緒の教材。
そりゃ、わかんないはずだわ。

「東大生って賢いんだな〜」って、身をもって知った瞬間だった。

〜終わり。