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脱・幻想住宅論

【住宅は「生き方」を世間に示す高級玩具】

人類が居住地を自由に選ぶ権利を手に入れて数十年。

「賃貸か?持家か?現代における住まいの持ち方とは?」

的な記事が、夏のやぶ蚊のように毎年湧いてくる。最近はエアビーアンドビー等の民泊サービスや、インフラ費用込みで定額で住めるOYO(オヨ)、毎月定額で複数拠点に住み放題というサービスを提供しているHafh(ハフ)やAddress(アドレス)といった多拠点居住も徐々に認知され始め、様々な論争を巻き起こしている。毎年飽きもせず量産され続けている所を見ると、人々の住宅への関心は健在のようだ。

この論争において「持家派」は

「将来年金暮らしで家賃を払えなくなったらどうするのか?家はいずれ無くなるけど土地は無くならない。やっぱり好きなように設計できる個人住宅が良い。」

と賃貸生活のリスクや持ち家のメリットを語り、対して「賃貸派」は、

「地震がきたらどうするのか?将来どうなるのか分からない時代で売れる保証もないのに大きな買い物したく無い。賃貸なら自由に住み替えられる。」

と反論する。最近出てきた多拠点居住派は、

「もうそんな時代じゃ無い。仕事なんてどこでも出来るし、今後の人生100年時代は多拠点居住ですよ。」

と語る。僕は彼らが自分の「生き方」を熱弁し、それを住まいによって表現しようとする姿を目にした時「この人たちは「生き方」を買ってるんだな。」と思った。

これは、車を例にすると分かりやすい。

比較的若い富裕層向けにフェラーリやポルシェ、年配の企業の重役向けにベンツ、若い女性向けにアルトラパン等々(ここは意見が分かれそうだ)。皆、社会生活を送る中で他者から見た自己イメージを抱き、それに適合するものを数ある商品の中から選び、購入する。
これは、「速い」といった「機能」、「広い」といった「快適性」、自動ブレーキといった「安全」等の性能で差別化が難しくなった産業が、次に手を出す領域だ。

ターゲットを絞り、その品を所有することでセルフイメージを強化するような提案を行い、購買意欲を掻き立てる手法だ。

「これを持っている私」は「自己」の価値を底上げするマジックアイテムなのだ。


【「ここに住んでいる私(たち)」という幻想】

僕は某住宅メーカーに勤めており、賃貸住宅の企画・設計をしている身なのだが、賃貸もやはり「生き方」、すなわち、「こんな暮らしがしたい!」という入居者の憧れを叶える間取りを考え、入居者の”こころ”を掴む賃貸住宅設計することが推奨されている。

20代単身女性向け1Kであれば、ドレスアップルームを付けてみたり、30代DINKS(Double Income No Kids。子どもを意識的に作らない共働きの夫婦。)向け1LDKであれば、休日に友人を呼んでパーティできるLDKを考えてみたり、40代トドラー世代(2〜5歳程度の幼児のいるファミリー)向け2LDKであれば、子どもを見守りながら家事ができるキッチンを考えてみたりと、暮らしのシーンを一生懸命思い浮かべ、工夫を凝らしたデザインを施している。

もちろん、この多様化の時代に金太郎飴の如く同じ住戸を量産することが望ましい訳はないし、デザインする方としても面白みはある一方、この暮らしのシーンに空虚さを感じるのは僕だけだろうか。「ここに住んでいる私(たち)」なんて、この世界に存在するのだろうか。


【「住まい」という”こころ”の器】

吉本隆明という思想家の『共同幻想論』において、人間が社会を認識する際には、「自己幻想」(自分が認識する自己の価値)、「対幻想」(夫婦親子・兄弟姉妹的関係における自己の価値)、「共同幻想」(社会における自己の価値)という3つの幻想が現れる、とされている。
そして、1960年代の学生運動の敗北によって失われたイデオロギー(共同幻想)に代わって、家族を守り、養うために企業戦士となり新たな戦いへ身を投じよ、というのが著者が示した「生き方」の指針だった。

この三幻想について知った時頭に浮かんだのが、下記の対応関係だ。

・単身者向け1K        → 自己幻想(「自己」に抱く幻想)
・カップル向け1LDK     → 対幻想(「夫婦」関係に抱く幻想)
・ファミリー向け2LDK    → 対幻想の集合(「家族」関係に抱く幻想)

そして、今の複雑化した社会の中で共同幻想を満たすことを断念した大人たちは、住まいという彫刻に自分や家族の存在を刻み付けて可視化し、自己幻想や対幻想を充足させる道を選んだのだな、と感じた。

つまり彼らにとって「住まい」とは、自分の”からだ”を収める「空間」ではなく、自分の”こころ”を表象する「彫刻」なのだ。

これは、消費者と供給者の共依存関係だ。消費者のアイデンティティを守るために膨大な資源を消費しているのかと思うと、情けない気分になる。

何故、こんなことになったのだろうか。住まいは、こんなねじ曲がった形でしか、所有できないのだろうか。人類の空間への欲求は、こんなに歪んでいるだろうか。


【諸悪の根源、マズローの5段階欲求説】

よくマーケティングなどで引き合いに出される、「マズローの5段階欲求説」は、商品開発や企画設計において時折目にする。この説を指示する人は、

「値段の高い住宅を買う人は、”見栄”を張りたいんだよ。」

と嘯き、上から三番目の「承認欲求」を満たす為に、人はお金を払うのだと語る。

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土台の生理的欲求・安全の欲求(衣食住)をまず満たし、会社に所属し、結婚し、子を成し(所属と愛の欲求)、出世し(承認欲求)、自分にしかできない仕事で称賛を浴び(自己実現欲求)、この世に未だ存在しない価値を生み出す、至高の体験を得る (自己超越欲求)。マズローさんがどういう人だったかは知らないが、よほど社会に認められたかったのだろうか。まるで超有能なサラリーマンの出世物語だ。

このモデルにおいて”からだ”は土台、サブ要素でしかなく、メインは”こころ”だ。そして”こころ”は他者からの「評価」で満たされる。僕は何の根拠もないが、今日の「評価」経済の元凶は、この5段階欲求説ではないかと勝手に思っている。


【”からだ”の声を聞く、ものづくりへ】

”こころ”の声を聞いている限り、他者との総合評価の網に絡めとられてしまう。
だから、”からだ”を満たす。

僕らの”からだ”は物質で出来ている。意識(こころ)は刺激が閾値を超えなければ認識できないが、脳(からだ)は確実にその刺激を感知しており、無意識下で処理しているのだそうだ。故に、どんな空間に身を置き、その場所の光・風・熱・音・気圧等の物理条件をどう設定するかによって、”からだ”は異なる反応を返す。

例えば、僕が好きな場所の一つである、金沢にある日本三代名園の兼六園には、「成巽閣つくしの縁」という庭がある。この庭の縁側にかかる屋根は出幅約3m、横幅20mに渡って柱がなく、非常に気持ちの良い空間となっている。

ここに一本でも柱が有ったら、台無しなのだ。それは、単純な視覚的効果が大きいのは確かだが、同時に光や影の状態、屋根の梁にかかる荷重が醸す木材の緊張感、空気の流れや音等、認知はできないかも知れないが体感には確実に差が出てくる。

こんな場所が家にあったら、春と秋の晴れた日はここでずっと過ごたいと思う。

兼六園

日本三代名園の兼六園にある「成巽閣つくしの縁」

このように、モノが”からだ”にどう作用するかを解き明かし、それによって新たな欲求の形を定義できれば、「製品とそのユーザー」はアイデンティティ幻想の地獄から晴れて解放されるのではないだろうか。

それは、今日のSNS社会の劣化問題や、新築住宅の量産による資源問題の処方箋としても機能する可能性を秘めていると考えられる。

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