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親と子の間の複雑な利害関係

 【親の心を子は知らないが、親もまた、子の心を知らない】

子どものためを思ってやっているのに、全然言うこと聞かない、伝わらない。。。あらゆる親がぶち当たる、子育てにおける最も困難な関門の一つであると思う。

私も子どもの頃、親に勧められた物は逆に意地でも手を出さないタイプだったし、「勉強しなさい!!!」的なことを言われて、素直にやったことなど、当然ない。思えば、この関門を前にして私の親が発した言葉は、なかなか強烈だった。

・「お金出してるんだから、口を出す権利が私たちにはある!!」
・「あーだこーだ言われたくないのなら、結果を出して実績を作りなさい!!」

こんな具合である。こんなこと言われ続けたら、どんな子でも壁に穴の一つや二つ開けたくもなるだろう。この時期からおよそ15年経き、お互いに落ち着いた今では本当に私のことが心配で、このような発言をしてしまったのだということ自体は、理解できている。しかし、理解した上であえて言わせてもらえば、このやりとりはやはり「百害あって一利なし」だったと、今でも本当に思う。

新しいことや世界の構造を知ること自体は楽しかったので、放っておいても勝手に勉強していたと思う。もちろん、やる気が出なくて生返事をしたこともあったし、言われなければやらない子どももいるとは思うが、嘘偽りなく「やろう」と思っていたのに、そのやる気を疑われ、本当に腹が立ったのを今でも覚えている。

子どもの将来を気遣う「心」はもちろん大切で、それ無しには始まらないのだが、その一方で、何ごとにも ” 上手いやり方 ” と、 ” 下手なやり方 ” いうものはある。
とても残酷な話だが、やり方次第で「心」の効果は100倍にもマイナス100倍にもなり得る。そもそも、「「心」があれば良し」という論理は、「子どもが最終的にそう思えれば御の字」という子ども側の話であり、親側としては”上手いやり方”の模索を放棄してはいけないはずだ。


「心」は免罪符じゃない。

 【そもそも言葉のカテゴリーが違う】

子どもは、自身の行動を誘導しようという意図を少しでも感じ取ると、反発する。これは私の経験の限りでは揺るがない事実だ。理屈抜きで、とても不愉快な気分になったのをよく覚えている。(今でもそうだが。笑)

なぜ、こんなにも腹が立ったのかと、改めて考えてみた。

そもそも「心」というは、主観的な、個人の、論理を超えた領域に属する概念だ。一方で、「権利」「義務」「お金」「実績」といった言葉は、客観的な、社会の、論理の領域に属するものである。(始まりは「心」であったはずなのに。。。)

つまり冒頭で挙げた親の発言は、「個人的で非論理的な欲求や不安(「心」)を、社会的に正しいとされている概念にすり替えて理論武装し、相手にぶつける行為」
であると言える。(こういうのを最近は、「ポリコレ棒で殴る」と言うらしい。)

これを踏まえて、先ほどの親の常套句を考察するとこうなる。

「お金出してるんだから、口を出す権利が私たちにはある!!」
 → これは「投資家」の台詞である。(しかも、企業を理解していないタイプ)

あーだこーだ言われたくないのなら、結果を出して実績を作りなさい!!」
 → これは「会社の上司」の台詞である。(しかも、部下を信用しないタイプ)

事程左様に、社会の側の言語を使うと、「親の言葉」ではなくなってしまうのだ。子どもを強制的に動かすことは出来るかもしれないが、それと引き換えに、親子の関係をねじ曲げ、崩壊させる、”諸刃の剣”なのである。

普段は良識ある大人が、子どもに対してはなぜかこのことをすっかり忘れてしまうのである。そして、これはあまり外側からは見えず、また他人の家庭の様子を知るのも難しいので、客観視するのは困難を極める。

本質的に無根拠な「心」というものを、社会的な言葉で表現するのは、反則だ。

(ちなみに子どもも知恵をつけ始めると、自分の「心(欲望)」を満たすべく、「社会」を振りかざし、必殺技:「みんな持ってるよ!」を繰り出すようになる。しかし、敵もさるもの。必殺技:「ヨソはヨソ、ウチはウチ!」をぶっ放して、
子どもの小賢しい野望を完膚なきまでに打ち砕いてくる。親は都合が悪い時には、「社会」は置き去りにしてマイルールを押し通す。。。)


 【「社会」は利害関係でつながる。では「家族」は?】

このように、子どもに対して社会的な言葉を使うのは、自滅ルートなのである。

そもそも「社会」とは、「仲間に入れて、守ってあげるから、税金払いなさい」の世界である。つまり、社会を担保するのは共同体と個人の間の利害の一致なのだ。故に、「社会」の言葉を「家族」の中に持ち込むということは、

「我が家は、利害関係でつながる共同体に過ぎません」

と自ら宣言するようなものである。少し極端で露悪的な言い方になってしまうが、親が子どもに反抗された時につい感情的になって言いそうな台詞を、この利害関係フィルターを通すと次のようになる。

・誰のおかげでここまで大きくなったと思ってんの!?
 → 育ててあげたんだから、私達が期待する人間になって、喜ばせて欲しい。

・少しは心配するこっちの身にもなってよ!
 → こんなに悩んでいるんだから、結果を出して不安を解消して欲しい。

・せっかく買ってあげたのに、全然使ってないじゃないの!!
 → 与えてあげてるんだから、「与えた甲斐があった」と思わせて欲しい。

・高い授業料払って塾に行かせたのに、全然成績上がらないじゃないの!! 
 → お金出してるんだから、見合う成果を出して私達を満足させて欲しい。

文字で表すと恐ろしいが、心のどこかで、多かれ少なかれこう思っている自分が、絶対いないと言い切れるだろうか。

実際には大抵「利害の意識」と「無償の愛情」がない混ぜになって訳が分からなくなっているだけで、決して本音ではないだろう。

それは分かっているのだが、少しでも我慢する努力をして欲しかったというのが、実際に食らった者が当時抱いた、切実なる願いである。私があんなにも親に対して腹が立ったのは、自分の言葉ではなく、社会の言葉しか使わないことを、無意識に卑怯だと感じたからなのだと思う。

 
 【子どもは、意外と毎日大変】

大人になり、親になり、子どもの頃の記憶もある程度覚えている身として言うと、思春期の子どもの方が精神的にはきつい。

将来の可能性は無限大って言われても、むしろ何を選んだらいいか分からないし、将来のことを考えだすと不安だし、学校って狭い世間だから生き抜くの大変だし、自分に自信なんて持てないし。。若く未熟故に人の気持ちの分からない奴も多く、ひどいことを言われたり、されたりもする。

また、意外とやることも多いのだ。勉強だって何教科もあってバランスよく進めないといけないし、部活や習い事もある。人間関係のこともある。これだけでも結構いっぱいいっぱいだと思う。

そして、これらは多かれ少なかれ利害関係を含んでいる。先生は勉強を教えてお給料をもらっているし、生徒の成績が悪ければその責任を問われたりもすると思う。どんな部活であっても原則上手な人間が重宝され、活躍できない者は不遇である。友達だって、もちろん魅力は人それぞれだけど、利害を超えた本当の友(いわゆる親友)を見つけるのは、大人だって難しい。

もちろん、純粋に生徒の将来を想っている教師は大勢いるし、ただ楽しくて部活に勤しんでいる子もいるし、親友をつくることもできる。

むしろ問題なのは、「どんな関係にも利害が生じ得る」という可能性がある事だ。物事が万事順調な時は良いのだが、ふとしたきっかけで歯車が外れうまく回らなくなり精神が乱れてくると、自分につながる全てが利害関係で結ばれた貧しいものにしか思えなくなってしまうのである。

これは別に、大人にも起こり得る。仕事がうまく行かなくなった時、上司の叱咤や同僚のアドバイスを素直に受け入れられず、「上司は業績のことばっかりだ」とか「自分はうまくいってるからって上から目線で言いやがって」などと言って卑屈になり負のスパイラルに陥ってしまう、といったことは珍しい話ではないだろう。

こんな環境の中で、親にまで利害関係的な言葉をぶつけられてしまうというのは、
子どもでなくても結構きついと思う。だから、親は家庭という子どもの居場所を、「利害」という概念とは完全に切り離したところに置いておかねばならないのだ。


家庭は、何があっても安心して眠れる場所でなければならないのだ。


(ドラマなどでよくある、30代独身女性がたまに実家に帰った時に親が醸し出す「結婚は?」的な無言の圧力を嫌って実家に寄り付かなくなる現象と同じである。心配なのは分かるが、一番不安なのは結婚相手が見つけられずに悩む本人だ。)


【子どもは親も「自分の言葉」は、憶えている】

今の年齢になって子ども時代のことを振り返ると、親が言った「社会の言葉」は、正直全く記憶にない。

私の母は小さい頃は優しかったが、10代になると、やはり将来が不安だったのか、「社会の言葉」を私に投げまくるタイプだった。そのせいか、印象には残っているのは、小学校の頃の記憶で、悪さをして叱られて近くの公園でしょんぼりしながら過ごし、夕方になると母が迎えにきたことや、好きだったアニメの最終回で好きなキャラが死んでしまい、キッチンで料理する母に泣きながらそのことを伝えたことなど、ほとんど10歳になるより前のものだ。

父も、仕事の感覚が身に染みついているのか、社会の言葉を使うことが多かった。正論を言うことが多かった。しかしそういった言葉はやはり記憶に残っていない。一番よく覚えているのは、「科学」についてのことで、「科学は宗教と本質的には同じで、突き詰めれば無根拠である」という世界観は、父から学んだ。これは私が思考する上での大前提になっているし、ここから派生して、数学や物理学に関心を深めていったように思う。そして、私の成績を支えていたのも数学と物理だった。

恐らく、普段から「科学」についてずっと考えてきたのだろうと思う。自分の中で十分に思考して熟成させた事物については、やはり、言葉の重みに差が出るのだ。

親が子どもに与える言葉は、これくらいで十分なのだと思う。子どもは親が真剣に考えた上で自然と発した言葉は、しっかりと聞いているものなのだ。


私も、一つでも多くの自分の思考を、我が子の記憶に残るような言葉に昇華すべくいろいろなものを見て、聞いて、感じて、考えよう。

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