願い事
願い事をするとき。初詣とか観光地でなんとなく神社に立ち寄ったときとか、流れ星を見たときとか、そういうとき。私の願いは決まっている。
「私が幸せになれますように」
私は特定の宗教を信仰しているわけではなく、神様の存在は正直なところあまりピンとこない。現実主義なところがあるので、願い事を誰かが叶えてくれることもそんなに期待していない。
では、なぜ願うのか。
未来の私を一人にしないため、である。
大好きなドラマ「大豆田とわ子と3人の元夫」
の中で特に心に残っている台詞がある。
亡くなった友人への苦衷を漏らす主人公。そんな彼女に対して語られた台詞である。
もう二度と会えない人。戻れない時間。
それらは決して消えてしまったわけではない。ずっとそこにいる。記憶があれば、ありがとうもごめんねもちゃんと伝えられる。
「being」魂は現在進行形だ。この世界に存在していた魂は消えない。現在進行形で存在し続ける。
後悔や苦い記憶はきっと誰にでもあるだろう。私にもある。忘れてしまいたい、消し去りたい過去が少なくない数ある。だけど、記憶に蓋をするのは苦しい。何かの拍子に開いてしまうことをどこかでずっと恐れている。思い切ってその蓋を取り去って、じっくり想いを馳せる。傷ついているあの日の私や傷つけてしまったいつかのあの子に寄り添うことができる。タイムマシンがなくても、時空は越えられるのだ。
それは未来に対しても同じなんじゃないかと思う。私は未来の私の幸せを願う。明日の、明後日の、5年後の、10年後の私が幸せでありますようにと願う。私の願いは、明日も、明後日も、5年後も、10年後も消えない。今日の私は、明日も明後日も願い続けている。明日の私が願わなくても、今日の私は願っている。私の願いは時空を超える。
私は今後ずっと、今日の私に幸せを願われながら生きていける。
願いが叶うかどうかは大した問題じゃない。誰かに幸せを願われているということが重要なのだ。寂しいとき、悲しいとき、自分の幸せを願っていること人がいることは救いになるはずだ。小学生ののび太が、3歳ののび太を陰から見守っているように、違う時間から来た私が見守ってくれていると思うと、心強い。
今日、恋人とご飯を食べながら心の中で
「私とあなたが幸せになれますように」と願った。
10年、20年経って私たちが一緒にいるかどうかはわからない。そのときの私が恋人の幸せを願うかどうかはわからない。別の誰かといるかもしれないし、二人ともこの世にいるとも限らない。だけど、未来がどうであれ、今の私は私とこの人の幸せを心から願った。
今の私は、今の彼も未来の彼も今の私も未来の私も愛している。愛し続ける。
だから私もあなたも一人じゃない。一人になんてなれないのです。
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