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無邪気な夏とさくらももこ。

小学校の頃、理科の授業で「虫眼鏡で太陽を見てはいけません」と習った。
実際に虫眼鏡をかざして白い紙が焦げていく様をクラスメイト数人と見ながら、校庭の真ん中で「すごーい!」とはしゃいだのを今でも思い出す。

実験を通してその危険性が理解できた後の、授業合間の10分休憩。
クラスの男子たちはそのまま校庭に残り、先ほど学んだ知恵をフルに活かしてアリをバンバン焼き殺し始めた。ただ生きていたアリと無邪気な殺人鬼と化した彼らは、なぜか夏の景色と最高に似合っていた。

チャイムが鳴ると同時に男子たちは「行こうぜ!」と教室まで駆け、汗を拭いながら席へ着く。
犯行時間は10分。
アリたちも10分でこんな悲劇が訪れるなんて思わなかっただろう。
いや、もしかしたらアリにとってはこの時期のこの事件はもはやあるあるで、『見つかってしまったね…今年もこの対策を考える時期かぁ』と、アリ界隈で1週間ほど話題になったくらいだっただろうか。

そして男子たちはというと、その後に真面目な顔をして道徳を学んでいる。
夏の日差しを虫眼鏡に吸収してアリにかざすイキイキとした眼差しとはギャップがありすぎて、幼いながらに「ヘンなの」と思ったのをいまだに覚えている。


けれどそんな男子たちとも私は仲がよくて、小学校時代はしょっちゅう一緒に遊んでいた。男女で束になって行く駄菓子屋や放課後にやるポケモンが、当時特に大好きだった。
駄菓子屋できな粉棒がハズれたからといって歯肉を突き刺して「おばちゃん、当たったよぉ〜!」と赤く染まったつまようじをかかげて言ったり、ポケモンをやってる最中にお腹が空いたからといって道端に咲いたキンモクセイを貪るとき以外は、私は彼らに何の疑問も持たなかった。

そうした活発な日々は流れ、小学校を卒業した後の私たちはそれぞれの学区の中学校に通い始め、会うこともなくなった。
おまけに中学生ともなると多くの男女は思春期を迎え、異性と一緒にいることに小っ恥ずかしさを覚えてきていたし、私も私で当時住んでいた埼玉から岡山へ引っ越してしまったので、物理的にも会う機会がなくなってしまったのだ。
振り返れば感じるほんの少しの寂しさもあるけれど、“面白いし楽しいし、イイ子だから”という無邪気な理由だけで共にいれたあの時間は、大人になった今でも誰かに対して「一緒にいてラクだなぁ」と感じる感覚の基準になっていると思う。

◇◇◇

冬になると、昔のことを懐古することが増えてしまう。
しかもそれはごく最近のことではなく幼少期や学生時代の記憶であるから、年々増していく凍てつくような寒さから逃げたくて記憶を引きずり出してしまうのだろう。

そんな記憶のタイムスリップとともに必ず思い出して手に取るのが、さくらももこさんのエッセイである。

私はさくらももこさんのエッセイが好きだ。
漫画ももちろん好きなのだが、特にエッセイは何度も読み返している。
学生時代や上京で引っ越したとき、ニトリの4列の本棚を3つに増やさないとヤバいくらい本が増えたとき。何度か本を売ったり整理したりする機会はあったのだけれど、その中でも唯一手放さず、手放そうとも考えなかったのが彼女のエッセイだ。

彼女の言葉には、太陽の日差しを虫眼鏡で凝縮させたような鋭さを感じる。
あの日、アリが浴びたであろうそれと同じものだ。
チリチリとした熱さを一点集中で脳天に受ければ死んでしまいそうになるし、何なら斜め上に向かって「やめろよ!!!」と叫びたくなって当然だと思う。
けれどそうしたところで、そこにはカラリとした表情の彼女が「何だい?」と笑みを浮かべ立っているだろう。私はそこで殺られる危機もムカつきも通り越し、いつもブフッと笑い転げてしまう。

エッジのある無邪気さは人を惹きつける。
そこにさらに突出したユーモアが加われば、図太くまっすぐな笑いが生まれるということを、彼女の言葉一つひとつから私は学んだ。


エッセイを読みながら、夏の日の理科の授業を起点に自然とあの頃を思い出す。
イキイキした眼差しの殺人鬼が真剣に道徳を学ぶギャップと、アリに感情移入していた少女の心。
駄菓子屋の赤いきな粉棒とポケモンの脇にあったキンモクセイ。あと、遊ばなくなった明確な理由などなかったこと。

あの頃は間違いなく、みんな無邪気だったんだよなぁ。
そんなことを思い、少し埃臭くなってしまった風をペラペラと浴びる。
もう記憶に読まされているのか、エッセイを読みたいがために記憶を呼び起こしているのか分からない。でも、読みたいから、黙々と読み進める。

私は冬の寒さに包まれながら鋭い光に灼かれ、ブフッと笑っている。

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