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1923年9月6日と2023年9月6日 森達也監督『福田村事件』のレビュー

2023年9月1日にTwitterで「福田村事件」という固有名詞がトレンド入りしていた。
森達也監督の新作が9月1日より公開と知り、私は本作品に関心を持った。

翌日、福田村事件の発生から丁度100年が経つ2023年9月6日に作品を瞠目できれば幸いと思いつつ、本作の上映館などを調べてネット予約を完了させた。
「今の時代は希望する座席を自らネットで指定できるのだな」と感じながら比較的前方の真ん中付近の席を指定していった。
2日の時点では数席を除けば自由に席を選択できたため、私は「比較的前方の真ん中付近の席」を選ぶことが出来た。
希望日に本映画を確実に瞠目できることに喜びを感じたのは言うまでもない。


当日、私は映画館へ足を運び、自分が今まで入ってきた映画館とは雰囲気とかが少し違うことに気づいた。
シネマコンプレックスとミニシアターの違いなどといったものを感じつつ、スクリーン3という部屋へ向かっていった。

スクリーン3に入ると、自分の席の周囲が他の観客で埋め尽くされていることが判った。
前を見ても後ろを見ても席が埋まっているように見えた。私は「どうやら満席のようだな」などと室内の雰囲気を感じ取った。

映画『シーナ&ロケッツ 鮎川誠 ~ロックと家族の絆~』や映画『6月0日 アイヒマンが処刑された日』などの予告編の後、「周囲の観客の迷惑となる行動を慎むこと」や「スマホの電源を切ること」などを注意喚起するアニメ調の動画が流れ、映画本編が始まった。

映画本編は遺骨を持った女性と澤田夫妻が列車に載っているシーンから始まる。遺骨を持った女性が夫妻と会話するシーンはその女性をクローズアップするような方向から撮影されていた。
登場人物の顔を視聴者に記憶させやすくなる効果などが期待できる一方で、「わざわざ一人の表情を序盤で強調する必要はあったのかな」とも思った。

映画はナレーションによる状況説明などが殆どなく、日付や地名を白文字のテロップで簡潔に表示するに留まっていた。
ただ中盤まで一部の登場人物の台詞が説明的な感じもあった。

また、内務省、姦通罪、鑑札など現代人には余り馴染みのない言葉がそこそこ登場する一方、それらの単語を逐一解説してくれるような安易な演出等が特に無いため、軽いノリで視聴できる映画ではないとも思った。

ただし、そのことは本映画が駄作であることを意味しない。それどころか本映画は間違いなく力作であった。
低予算映画とは思えないほど映像はリアリティーに富んでおり、役者の台詞にも熱がこもっていた。
私は小学生のときにNHKドラマ『坂の上の雲』を親と共に視聴していたが、基本的に高予算であるNHKの実写ドラマに匹敵するほど映像の質が高かった。
澤田の妻が傘をくるくる回しているシーンからカメラの視野を広げていく映像など、撮影技術の工夫も感じられた。
今の時代の民放ドラマでは味わい難いような完成度の映像であったことは確かである。

音楽や音響も私の耳には特に問題なく鑑賞できた。柄本が演じた役は肉体の衰えた老人に見えるので、その老人のビンタは音(効果音)が小さめでも良かったかもしれないと感じたことを除き、気になる点はなかった。

福田村事件という殺戮シーンが直に描かれるのは終盤の数十分ほどだったが、序盤や中盤でもビンタなどといった暴力は映されていた。
これらの暴力シーンの多さはビンタ程度の暴力であれば当時の日本では普通に行われていたことを示しているように思った。
なお不倫が発覚した女性が年上の女性にビンタされ「姦通罪で牢屋だ!出てけ!」とどなられるシーンの直前で、姦通罪を犯した女性は「寂しかったんだもん」というような自己弁護をしていた。私は、たまたま5日前に「寂しかったことを理由にする女性たち」というnote記事を公開していただけに偶然の一致に驚いた。

本作は時系列に沿ってストーリーが進んでいく展開となっている。重厚なストーリーを描くドラマは、NHK大河ドラマ『平清盛』や、テレビ朝日『相棒』の「バベルの塔」などのように、終盤の重要シーンを冒頭部でチラ見せしてから時系列で最初の方の部分を流していく作品が多い。
だが、本作では冒頭部に福田村事件の殺戮シーンが少しだけ紹介されるなどということはなく、9月6日に行商人が村の住民に囲まれるまで福田村事件のシーンは登場しなかった。

行商人のリーダーは朝鮮飴を売る一名の朝鮮人女性から朝鮮飴を多めに買うが、そのことを有難く思った朝鮮人から一つの扇子をプレゼントされる。リーダーはそのプレゼントを受け取ったのだが、これは9月6日の悲劇につながってしまう。
不謹慎を覚悟で書くが、もし「扇子をプレゼントされるシーン」が何らかの経緯でニコニコ動画に投稿されたのならば、「死因」というコメントが弾幕として流れそうだなと私は思う。
朝鮮飴を売っていた女性は自警団によって殺されることとなるが、死ぬ間際に突如自分の名前を叫びはじめたことが印象に残った。

この扇子というモチーフのことを「フィクションくさい」と感じる視聴者が見られるようだが、「事件の発端は、一行の内、一人が中国人より安く買った黒紙の扇子を所持していた事による」という記録が実際に残っており、史実を踏まえたモチーフとなっている。

なお本作は豆腐の中に或る指輪が入っている展開や、じゃんけんに勝った側が殺害されて負けた側が生存するという展開や、お守り袋の伏線など、脚本家の工夫が散見される。

平澤計七という活動家が警察官によって殺害されるシーンをみて「関東大震災は1923年だが、治安維持法の制定は1925年だったよな?」などと不思議に感じる視聴者もいるかもしれない。
だが、これも福田村事件と同様に実話がもととなっている。
甘粕事件と比べて知名度が何故か低いようだが、南葛飾郡でも亀戸事件が発生し、複数の日本人が殺害された。

軍隊に親和的な丸刈りの青年もいたが、若者は得てして真新しい思想や頼もしそうな団体に敬慕の念を抱きがちである。ポルポトやナチスドイツでも年齢層の若い国民が多く染まっていった。

震災後の夜、澤田の妻は湯船に浸かるが、湯の色は白かった。これは行商人から買った薬が入っているからなのかもと少し感じた。

映画の終盤、行商人は村の住民に囲まれることとなる。
住民の中には行商人の命を救おうとする者もいたが、殺戮事件を防ぐことは叶わなかった。

作品の中には、鑑賞者・視聴者に「この登場人物はどうすれば生存できただろうか」と考えさせるものがあると思う。本作やアニメ映画『火垂るの墓』などはそうだろうし、実写映画『タイタニック』もそうかもしれない。個人的には、これを「生存ルート考察」と呼んでいるが、多分「生存ルート考察」は私の造語に過ぎないだろう。

本作に関して生存ルート考察をしていくならば、まず朝鮮人女性から貰った扇子や讃岐弁などが死因の要素となっていることに言及せねばならない。
だが、最大の死因は、行商人のリーダーが「朝鮮人なら殺してええんか」と述べてしまったことなのかもしれない。
我々視聴者は、行商人たちが日本人であることを知っている。だが、朝鮮人ではないかと疑っている住民の耳には、「朝鮮人なら殺してええんか」という台詞はどう聞こえるだろうか。
事実、映画本編でリーダーが鳶口で殺されてしまうのはリーダーがこの台詞を発した直後のことであった。
「朝鮮人なら殺してええんか」は倫理的には普通に正しい主張だし、「どんな人種であっても人を思い込みで殺してはならない」というのは道徳的にも正しい。
だが、倫理的に正しい台詞を発してしまったがために、リーダーは殺され、8人(9人)もの仲間も死ぬこととなってしまった。

福田村事件の後、行商人の中で生き残った少年が「殺された9人(10人)にも一人一人名前があった」と述べ、犠牲者の名前を全て口にするというシーンがある。
私はこのシーンを見て、「同様の意見を他の作品などでも見聞きしたな」と感じた。たとえばテレビ朝日『相棒』でも冠城亘が似たような台詞を発する回があった。
いま思えば、朝鮮飴を売っていた女性が死ぬ間際に突如自分の名前を叫び始めたのは、「大量死において犠牲者は数字で表されがちだが、実際には犠牲者一人一人に名前があったということ」を脚本家が強調したかったからなのかもしれない。

映画本編が終わり、エンドクレジットが流れ始めたが、映画制作に資金援助した民間人たちの名前も混じっていた。
<新潟・森達也応援隊>や<町田「慰安婦」問題を考える会>などのような名前も見え、本映画の支援者の幅の広さが窺えた。

本映画を見終えて帰宅した後、私は福田村事件そのものや本映画に関する情報を集めた。
その結果、クラウドファンディングの内情を述べた記事や、脚本家サイドと森監督との対立などを知ることが出来た。


3500万円以上を集めた『福田村事件』クラファンの裏側(木俣冬) - エキスパート - Yahoo!ニュース

『福田村事件』森達也監督 生粋のドキュメンタリストが作る劇映画が、日本の暗部をえぐりだす【Director’s Interview Vol.349】(CINEMORE) - Yahoo!ニュース

映画『福田村事件』――ホラーで愛国でリテラシーな超問題作|下村健一 (note.com)


本作はPG-12となっており、事実バイオレンス描写だけではなく性行為を暗示する描写も散見される。個人的には、大正時代はマッチングアプリなどがなかったことが背景にあると考えている。
今であれば少し離れた地域に住む異性であってもアプリやサイト経由で会いにゆける機会が物理的には多くある。しかし、当時はそのようなアプリやサイトが皆無だった。それゆえ異性愛を満たす対象は近隣の異性以外になかったのであろう。

序中盤の性描写は本映画で必要だったのか蛇足だったのかは意見が分かれるのかもしれない。だが、私は一定の必要性はあったと考える。四年前の堤岩里事件のあと澤田の性欲が失せていることが示しているように、性欲が「強い意欲を持って何かに取り組もうとする気力全般」を暗喩していると解釈することは出来る。
「行商人を朝鮮人だと思い込んでいる住民」に対して船乗りは落ち着くよう言ったが、もし不倫騒動によるマイナスイメージが船乗りになければ住民たちが冷静さを取り戻し、殺戮行為に走らなかった可能性もある。

本作の映画ポスターは複数のバージョンがあるが、個人的には灰色を基調としたポスターに最も目を惹かれた。


ポスターその1


ポスターその2


近頃の映画ポスターはブロッコリーと揶揄されるような凡庸でありきたりな代物が多いなか、本映画のポスターは独自色を強く感じさせる。
本映画のような力作がもっと世間一般で注目されていけばミニシアターの未来はどんどん明るくなっていくと言えるのではないだろうか。


サムネイル画像のソース:映画「福田村事件」の上映 新潟市で始まる 森監督があいさつ|NHK 新潟県のニュース


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