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「ぼくらのパパは空手の先生」(1975) フィンガー5 メンバーが6人の謎?!〜三男 正男さんにお会いしました!

久しぶりに昭和歌謡です〜。

フィンガー5って全く世代ではないのですが、私は何とも惹かれるグループなんです。
和製ジャクソン5とも呼ばれた沖縄出身の兄妹5人のスーパーアイドル。

1980年代、歌謡曲を聴きまくっていた小学5年の時、月刊明星の付録"ヤンソン"に昭和の懐メロ特集の記事があり、そこに載っていたフィンガー5 晃クンの古めかしいトンボメガネ姿の写真を見たことが、私にとって衝撃の出会いでした💦

以来、実家の店の有線放送にリクエストして「恋のダイヤル6700」「学園天国」「恋のアメリカン・フットボール」など覚えました。よく聴きましたね〜。

当時はテレビ番組でも、まだ権利が緩かったのか、懐かしの芸能人の映像がバンバン流れていましたね〜。

10年ほど前でしょうか、フィンガー5のベスト盤CDを買って久々に聴いてみたところ、他にも私の知らない良い曲を発見!
中でもここ数年、私のお気に入りがこの曲です〜(^^)

「ぼくらのパパは空手の先生」

作詞 阿久悠 作曲 三枝伸 編曲 深町純

あまり知られていない曲ですが、これがイイんですよ〜。

1975(昭和50)年6月21日発売、通算10枚目、
ポリドール移籍最初のシングル。


イントロは当時人気の香港カンフーっぽく、沖縄の音階が入ったかと思えば、歌い出しからは16ビートと忙しいアレンジ…でも曲自体には黒人ソウルのフィーリングを感じるんですよね〜。

特にBメロ〜サビにかけてメロディが最高!歌謡センスを織り交ぜた和製フィリー・ソウルといったマイルドさがあります!!
歌詞のテーマこそ子供向きですが、曲は相当レベル高いと思いますね〜。

〜謎?! 6人のフィンガー5〜

ちなみにこの曲の当時のTV映像を観てみると、面白いことに気付きます。


何とフィンガー5、なのに6人いるんです!
これにはビックリ!!

以前、当時のことを色々と調べたのですが、これにはグループの事情があったようです。

①四男 晃クンの変声期

フィンガー5の売り物といえば晃クンのハイトーンボイスですが、それまでのように声が出なくなります。本人曰く中学2年から声変わりが始まったとのこと。
グループのピンチに事務所からは、成長を止める女性ホルモン注射を打たれそうになったとか……当時の芸能界怖いデス〜。

②長男 一夫さんの脱退意向

沖縄時代からリーダーとして、東京でメジャーになってからは実質マネージャーも兼務していた長男の一夫さん。この頃から完全にグループのマネージメントに回るために脱退の意向を示していました。

③事務所を辞めて独立

1975年にフィンガー5は事務所を退所し「フィンガーファミリー」を設立。レコード会社も「個人授業」以来のフィリップスからポリドールへ移籍。
フリーになった彼らはこの年の8月から半年間、音楽修行のために渡米します。


このような事情が重なり、フィンガー5は一夫さんに替わる、しかもハイトーン声が出る新メンバーを補充。
それが映像で向かって左端にいる小さな男の子、具志堅実クン、当時8歳、なのです!


ではこの子は一体誰なのか?


これ、ずっと調べてきて突き止めました💦

皆さん、私も含めて殆どの方がフィンガー5とは5人兄妹で、女のコは妙子ちゃん1人だと思い込んでいないでしょうか?

実は1番上に長姉がいるのです!

年の離れた長女の息子、つまり兄妹からすれば甥っ子が、この具志堅実クンなのです!!

凄いですね〜!何よりファミリーの繋がりを重んじる、沖縄ならではの結束心です!
米国サザンロックにも通じる血縁の強さよ!

そんな訳で「ぼくらのパパは空手の先生」は移行期にあたりメンバーが6人なのです(^^)

レコードのジャケットには写っていませんが実クンはホイッスルを吹き、甲高い声で間奏のセリフ "五獣拳つるの型〜…" そしてコーラスにも参加しています。
映像ではあどけなくてカワイイですね(^^)

それでは私がオススメする、和製ジャクソン5と呼ばれたフィンガー5の名曲を!

「上級生」(1974)


「バンプ天国」(1975)


〜フィンガー5・正男さんに聞きました〜

東京都荒川区の町屋に、フィンガー5の三男 玉元正男さんが経営する沖縄ダイニングバー「いちゃりBar」というお店があります。
数年前に一度行ったのですが、店内のショーウィンドウにはフィンガー5時代のレコードジャケット、衣装、グッズが並べられており御本人も気軽に当時のことを話してくださる素敵なお店です。

「個人授業」の晃クンの衣装だそうです。
「ぼくらのパパは空手の先生」正男さんの衣装!!
すべてのシングル盤がズラリッ!

先日久しぶりにお邪魔して、フィンガー5の詳しい歴史を聞かせていただきました〜(^^) 

玉元家のお父様は、当時アメリカの統治下にあった沖縄でAサイン・バー(米軍人を扱える許可のあるバー)を経営されていたそうです。正男さんは幼少の頃から米国人に囲まれる環境で、ツイストを踊ってチップを稼いでいたとか(笑)
入ってくる音楽はアメリカのR&B、ロックばかり。歌謡曲は知らなかったらしい。

始めは上の3兄弟でバンドを結成。米軍キャンプに直談判しては、アポを取って演奏していたというんだからスゴイ。やがて沖縄のコンテストで優勝。一家揃って上京したのが1968年4月、正男さんが小学4年生の時だったそうです。

横田基地など米軍キャンプで腕を磨き、始めはベイビー・ブラザーズでレコードデビュー、やがてフィンガー5に。しかし全く売れず、沖縄に帰ろうとしていた所を声を掛けてくれたのが、当時キャロルのディレクターだったそうです。

最後に受けたオーディションでは、思う存分大好きなジャクソン5やトム・ジョーンズをカバー。
この場に立ち会っていたのが、彼等の運命を決める阿久悠、都倉俊一のお二人。結果はOK。
内地にも理解してくれる人がいたんだと、この時ばかりは嬉しかったと仰ってました。
そしてレコード会社を移籍して再デビュー。「個人授業」はフィンガー5名義の2ndシングルになるとは知りませんでしたね〜。

ちなみに先ほどの具志堅実クン、イヤ実さんは今では一番身体が大きく、現在は沖縄で漁師をされているそうです!
正男さん本人は今でも音楽を続けておられ、毎年誕生日の2月にはコンサートを開き、今年も二男 光男さん、二女 妙子さんもゲストで登場して大盛り上がりだったそうです!

63歳のフィンガー5 正男さん(^o^) 図々しくも
持参したレコードにサインも貰いました😄
御本人に許可戴いてます。

お話を伺っていて、フィンガー5ってかなりの下積みがあったことがよく分かりました。
そしてあの時代の沖縄だからこそ誕生したことも。生まれ育った環境がほぼアメリカ、ほとんど本場仕込みだったんですね。

さて、このところ話題だった沖縄本土復帰50年についても聞いてみました。
正男さん曰く「返還前の昔の方が良かったよ、楽しかったな〜」と。

内地の者には伺い知れない歴史の奥深さを感じました。アメリカン・コミックから飛び出して来たようなフィンガー5の鮮烈さには理由があったんだと…。

時折、お店には外国からのファンもやってくるとか。フィンガー5の音楽は海外の人にも響いているようです。

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