神頼み

そろそろ起きて仕事をしようかと思っていたところで珍しく携帯電話が鳴った。
相手は父である。しきりに短い言葉を繰り返している。

どこそこの病院にいる。
そのまま検査入院になった。
血が足りない。
薬を持ってきてほしい。

老人らしく要領を得ない話し方だ。
血が足りないってなんだ。ルパンか。
とにかく、月に数回のいつもの診察のつもりで来たら、そのまま検査入院が必要と言われ帰れない。
そこでいつも服用している薬をすべて持ってきてほしいとのことだった。

父に指定された時間まで、まだ間がある。
食料などが足りないので、それまでスーパーで買い物をすることにした。
だが、その後で急に不安が襲ってきた。
母に次いで父もか。そう思った。
先月旅行から帰ってきて、ずっと行こうと思っていた地元の神社に向かった。
母のことをお願いしようと思っていたのだ。
駐車場に車を停め、社に向かう。歩幅が狭い。ちょこちょこと不器用な歩き方しかできない。不安で動揺している証拠だ。

鳥居のすぐそばまで来て、私は石垣に手を付いた。
限界だ。
あの人にはまだ知らせまいと考えていた。また心配をかけるからだ。
今日のこの事が終わってから説明しようと思っていた。だが限界だ。
電話をしたら、彼の女性は、訝しがりながらも快く応答してくれた。

簡潔に状況を説明して、そして質問した。

「気持ちを落ち着けるには何を食べたり飲んだりしたらいい?」
「好きなものを」

彼女の声は穏やかで優しかった。いつもは意地悪な彼女の、本来の性質を表す声だった。
気を取り直し、一礼して鳥居をくぐる。

財布から取り出した100円を賽銭箱へ投げ入れ、二礼二拍。
そこで私の思考が停止した。
いつもならこの時に、自分はどうなってもいいからとお願いしていた。だが、今は我が身がかわいい。自分の幸せを失いたくない。
神とて、ただで言うことは聞いてくれない。代価がなくては誰も仕事はしない。
命を救ってくれと頼むからには、命を差し出さなくてはならない。
これまでは、最後の一礼で自分をと言ってきた。だがもう言えなくなっていた。

先日、彼の女性に語った言葉だ。
「幸福とは脆いものだよ。いつ失うか分からない。それに怯えるのは嫌だ。だから自分はほどほど不幸なのが似合っているのかもしれない」
彼女がいなければ、不幸でも良かったろう。辛い日が続くが、いまは幸福の只中なのだ。

いつか彼女は笑いながら聞いた。
「あなたはどうして、いつも願い事のたびに体の一部を差し出そうとするの?」
指摘されるまで気付かなかった。確かにその通りだ。
そしてそれは、自分には何もないからなのだ。
何もやるものがなければ自身を提供するしかない。
大きな犠牲を払うようで、実は自分の懐が痛まない方法だ。
だがもう指一本すら惜しい状況になってしまった。

なんとも気まずい思いで最後の一礼をした。
何も供えず頼み事をするこの厚かましさを御許し下さい。
深々と下げた頭を起こして踵を返した。
鳥居へ続く階段を降りる途中、片足と片腕ではどちらが良いだろう、などと考えた。
それから来た時よりは幾分軽い気持ちで父の待つ病院へと車を走らせた。


以上が昨日のことである。この後には私の心が修羅になるような出来事が起こる。
そして今日、ついさっきのことだが、幼馴染から電話があったので、これらのことをすべて話した。
すると、彼は言った。
「腎臓でいいじゃん」
なるほど、その手があったか。
最低の二人である。

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