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「恩讐の彼方に」と羅漢寺

先日お坊さんの突然の訪問を受けたことを機に、買ったままにしてあった菊池寛の短編「恩讐の彼方に」を読みました。今の大分にある羅漢寺、そこに向かうための難所「鎖渡し」で、年に何人もの死者が出るため、無謀とも思えるトンネル掘りに一生を捧げるお坊さんの話です。

主人公はあるじ殺しという大罪を犯し、その罪を償う大業として、羅漢寺詣での難所「鎖渡し」に変わる洞窟を掘ることを決意する市九郎。
嘲笑われながら、呆れられながらも、18年の年月を捧げるうちに、周囲の目も変わってきます。

村人たちの協力を得られるようになり、大業完遂まで後少し、という時になって、市九郎が殺害したあるじの息子が、長年の怨みと憤りを抱えたまま、市九郎の前に現れて…というお話。

昨年の秋、大分に旅行した際に、旦那が「どうしても行ってみたい」という希望で羅漢寺にお参りしました。その際、この物語のモデルとなった「青の洞窟」のことを知り、小説を読んでみようかな、と思ったのです。

羅漢寺は私にとって、とても印象の残る場所となりました。岩肌にしがみつくように建てられている寺や刻まれている仏様。そうした歴史の遺物も素晴らしかったのですが、ここは今なお現役の修行の場なのだ、ということでした。まず入山後の写真撮影は一切禁止。そして入山許可証をいただく受付のおばちゃんがかなりの塩対応(お前には入山する資格があるのか⁉︎と値踏みされてるような)

誤解のないように言えば、「ここはチャラチャラ「ばえる〜」とか言って写真撮るとこじゃないんです。わかってる?」という空気を暗に漂わせている感じ。

そもそも入山許可証をいただく場所が、登山用ロープウェイ乗り場からさらに階段100段くらい上がらないと貰えない不親切さは、「ここは普通の観光地ではないということを理解しない者は、来なくてよし!」という潔ささえ感じました。

となると、私も旦那も「ああ、ここはそういうとこなのね」と理解したのですが…

こうした対応は、人によって受け取り方が様々なようで、下山出口に置かれたノートには「良かった」「悪かった」の意見が半々。なかなかひどい悪態をページ丸々使って書き殴っている方もいて(これはなかなか衝撃的でした…)、本来心を鎮めるための寺で、直情的な感情をむき出しにするのは、ほんとどうなのよ、と思いましたが、これも今のSNS時代の一コマなのかなぁ…

確かに今は観光地化した寺社もたくさんあって、こうした羅漢寺のような場所にはとまどうかもしれない。
けれど、歴史の遺物の中には、尊厳を持って訪れなければならない場所があることも事実。
どこへ行っても観光客ウェルカム!みたいな場所ばかりに行ってると、こういう感度が鈍くなってしまうのかしら…

ここに詣でるために、難所で少なくない方が命を落とし、さらにそんな方をひとりでも無くそうと壮絶な決意をして大業を成し遂げた僧侶がいる。そして今なお、そうした人々の思いを真摯に受けとめる場所である、いうことを感じられなければ、このお寺のありようはわからないかもしれません。

遠景から撮影した羅漢寺

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