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夜の巡回

 伊織さんは大学卒業後に、看護師として働き始めた。勤めているのは大学病院の整形外科である。三交代制のシフト勤務で、夜勤も月に数回こなしていた。

 夜勤では、病室の見回り業務がルーティンに組み込まれていた。消灯後に病室を巡回し、患者さんがちゃんと眠れているか、変わった様子がないかを確認する作業である。

 その日の夜勤人員は伊織さんと先輩の女性看護師、花田さんの二人だった。定刻になったため、伊織さんは「見回りに行ってきます」と花田さんに声をかけ、ナースステーションをあとにした。

 病室はナースステーションの左右にそれぞれ八室ずつで、合計十六室を一人で見回る。
 消灯後の病棟といっても、廊下の薄明かりが灯っていて不安はない。いつも通り、ナースステーションから出て左側の手前にある病室から見回りを始めた。

 伊織さんが巡回するフロアにある病室はすべて四人部屋である。
 そのため、ベッドと入院患者を照らし合わせる目的で、名簿を持参して見回りを行っていた。皆ぐっすりと寝ているようで、かすかに寝息が聞こえる。

 七室の見回りが終わり、一番奥の病室の前までやってきた。この部屋は定員よりも一人少ない、三人の患者が入院中だ。起こさないよう、そっと扉に手をかけた瞬間、伊織さんの耳に小さな声が聞こえてきた。

(まだ起きている患者さん同士でおしゃべりしてるのかな)

 スッと扉を引いたとき、声が止んだ。誰も起きている様子はない。

(ただの空耳か)

 声の正体を探ることなくそう片付け、名簿を片手に各ベッドを確認する。手前の左右、右奥、と目をやり異変がないことを確かめ、流れで誰にも割り当てられていない左奥のベッドにも視線を向けた。
 暗くてはっきりとは見えないが、違和感を覚えた。足音を殺してベッドへ近づくと、違和感の正体に気が付いた。

 シーツが乱れている。
 さらに、電動ベッドの上体部分が三十度ほど上部へ動かされていた。

 軽く上体を起こして寝ていた誰かが、今しがたベッドから抜け出したような様相である。マットレスに触れてみると、ほのかに温かかった。

 ここ、誰か入院していたっけ――慌てて名簿を確かめるが、やはりこの部屋の入院患者は三人だ。
 寝ぼけた誰かが間違えてこの部屋に入り込んでしまった可能性も考えたが、誰も割り当てられていないベッドには、リネンはセットしない決まりのはずだ。

 すやすやと寝ている三人の患者と名簿を見比べ、確かにこの部屋で間違いない、と確信した。名簿が間違っているかもしれないと考えた伊織さんは、ナースステーションにいる花田さんに確認をとるため病室を抜け出した。

「花田さん、一番奥の部屋って患者さん四人でしたっけ?」

「いや、三人のはずだけど。どうかしたの?」

 花田さんは怪訝な表情を浮かべている。さきほど目にしたものを説明し、花田さんに同行してもらい、再び例の病室を巡回することになった。

 恐る恐るドアを開けると、左奥のベッドにはマットレスだけが設置されていた。
 さきほど触ったはずの温もりが残ったシーツは姿を消している。
 ベッドの角度も調整されておらず、まっすぐの状態だった。

「ほら、三人じゃない。見間違えたんだよ」

 伊織さんは納得できなかったが、患者が抜け出して行方が分からなくなった、といった問題が起きておらずひとまず安堵した。
 まだ見回りが全て終わっていないことを思い出し、花田さんに礼を言って部屋を出ることにした。
 その後は何事もなく終業時間を迎えた。

「多分、私の見間違えだと思う。だけど、ベッドに触ったとき、直前まで人がいた温度だと感じたの」

「こうなると最初に部屋に入ったとき聞こえた声も、空耳じゃない気がしてくるんだよね。だってあの部屋、男性患者しかいないのに、聞こえてきたのは女性の声だったんだよ」

 以降、退職するまで、不思議な出来事には遭遇しなかった。伊織さんが見た誰もいないはずのベッドと、声の関連性は謎のままである。