ファンダムとSNS、政治化するエンタメに関するノート
1.ファンダムとは
あなたは Fandom(ファンダム)という言葉を知っていますか?
これは熱心な愛好家を意味する Fan に接尾辞 dom を付け加えた新しい単語で、私たち Wikia(ウィキア)の世界観をあらわすコンセプトフレーズでもあります。
Fandom はアニメ、コミック、音楽、ゲーム、映画、テレビ番組、アイドル、スポーツなどの情熱的なファンがつくる新しい世界、また彼らによって形成される新しい文化を意味しています。
ポップカルチャーを中心とした最新情報が集まる Wikia の世界観は、まさに Fandom の宇宙そのもの。世界中のファンとコンテンツへの理解を深め、知識を整理し、情熱を共有し合うのに最適な空間として、いまも拡大し続けているのです👐✨
映画、ゲーム、TVドラマ、コミック、アニメ、スポーツ、音楽…。さまざまなコンテンツがさまざまなファンによって支えられていることは指摘するまでもない周知の事実。しかし近年、とりわけコアなファンたちの知識や熱量が、コンテンツそのものに影響を与え始めている。その中心にいるWikiaとはいったいいかなる集団か?
コミックやアニメ、映画といったコンテンツの熱狂的なファンによって、Wikiaの情熱溢れるコミュニティーがつくられているわけですから、彼らは非常に重要な存在です。コンテンツはわたしたちがなにかをターゲットにしてつくるのではありません。ファンの情熱によって生まれるのです。わたしたちはWikiaというサイトを、別名〈The Home of Fandom〉と呼んでいます。そこには、熱狂的な“スーパーファン”たちの家のような存在になりたい、という意味を込めています。ファンダムには『熱狂的なファン』という意味もありますが、同時に、ファンとキングダム(王国)の造語でもあるんです
2.『ファンダム・レボルーション』
問題は、企業側に個人の発言をコントロールする手立てがまったくないことだった。
ファンとの本物の関係を作りたいと思うなら、ファンの本物の体験と動機を理解しなければならない。ファン体験はこうあるはずだという幻想を抱いても仕方ない。マーケティングのテクニックの上に「本物らしさ」をふりかけても、本物にはならない。
映画のロケ地やアニメの舞台を訪れることを「聖地巡礼」、好きなものを他人に広めることを「布教」と表現することにも表れているように、ファン活動は宗教に似た要素を持っている。
日本では2次創作が盛んだ。ファンが見たり読んだり買ったりするだけでなく、なんらかのコンテンツを作ってくれているというのは、企業にとってそれ自体がすばらしいことだ。脳のなかでファンになるときに使われる領野というのは、宗教を信じるときに活動する領野と同じだとする研究がある。脳にとっては、教会も『スター・ウォーズ』も大差はないのかもしれない。ソーシャルメディアが普及し、ファンの発信や創作活動が活発化しているからこそ、企業側は細心の注意と敬意を払って、それらと向き合うべきだろう。
「ファンと消費者を分けるのは参加体験です。消費者はお金を払ってブランドを手に入れる。一方、ファンは対象となるコンテンツに時間とエネルギーを注ぎ込みます」
「ファンダムとは“人”ではなく、ファンの“行動”を表す言葉です。熱狂的な人たちが参加する、利益とは関わりないもろもろの活動がファンダムなのです。消費者は製品を気にしますが、ファンは製品が意味するものが気になる。欲しいものも必要なものもまったく違います」
「ファンダムは思いがけない応援をしてくれることもあれば、炎上もします。今やビジネスで成功するためにファンダムは不可欠ですが、コントロールはできません。炎上は何度経験しても、慣れることはないですね(笑)。
「これからますますファンとファンオブジェクト(対象)の距離は縮まっていくでしょう。ファンの創作物が公式作品の一部になるような未来が、すぐそこに来ているのだと思います」
それにしても、ファン文化というのは、なんと宗教(が作り出した文化)に似ていることだろう。
ファン心理は、こうして、人間という生き物がもつ根源的なフェティシズムに触れることになる。
近現代の経済理論は、長らく経済主体である「消費者」というものを「自身の効用を最大化すべく合理的な行動をするもの」と考え、「企業」というものも「自身の利潤を最大化すべく合理的な行動をするもの」と考え、それぞれの行動がクロスするところに「モノの価格」が決定するとしてきたが、その仮説からみたとき、「ファン」という存在は、いかにも非合理で、謎めいたものとして立ち現れてくる。
ファンのモチヴェーションは、費用対効果で決して測ることができない。むしろ、ファンは、そこにそうした「経済合理性」を持ち込まれることをすら嫌うだろう。「タダでもやる人がいるんだから、インセンティブを与えればもっとやるだろう」という観点から行われるマーケティングは、ファン心理を決定的に見誤っている。お金をもらってファンアートを描くような人間は、ファンの風上におけない。そんなシンプルな動態さえ、経済学やマーケティング理論はきちんと扱えてこなかった。それではもはやこれからの商売は立ち行かない、ということが、本書のような本が必要となっている理由なのだろう。もちろん、これまでも「ファンダム」も、それをターゲットにした「ファンビジネス」も存在はしてきた。じゃあ、一体何が、決定的に変わってしまったのかというと、それが容易に、組織化され、可視化されるようになったということに尽きるだろう。
「消費者」は消え、世には「ファン」と「アンチ」と「どうでもいい人」の三つの類型だけが存在することになる。「消費者をファンに変えること」は、かくて世の企業の重大なミッションとなるわけだが、ここで最も重要なのは、先にみたように、「ファン」は経済学やマーケティングが想定してきた、分析可能な合理的な存在ではまったくないということだ。
「企業にとって必要なものと、ファンが望むものの間には常に相反がある」(255頁)、「ファンとオブジェクトの関係はいつも一方通行だ。ファンは愛する対象に強い感情を感じるが、対象はファンに対して同じ感情を抱くことはない」(213頁)――こうした前提に立ったうえでファンとの関係の築き方を探る本書の態度は、きわめてまっとうだと思う。ファンの愛は、報われないし、誰かが報うことも決してできない。ファンは哀しい。その哀しみは、実に人間的なもので、であるがゆえに、危険なのだ。
3.K-POPとファンダム
SNS等のメディアが発達して、ファンたちは以前よりはるかにはやくて組織的に自身の意見を表わすことができる。コミュニティ、ハッシュタグ運動などファンダムたちが声を大きくあげて、これを報道機関などメディアが注目することによって所属事務所やアーティストの反応を早くキャッチする流れができたのがファンダムが変わった最も大きい理由」と話した。ファン層の年齢層が多様化したのも色々な考えが交わって合理的な結論に到達するようになったという分析もある。
ファンダムの声が歴史、社会問題まで拡張されたところは韓国コンテンツがYouTubeなどグローバルメディアで絶えず消費されているからだ。
「韓国創作物がいまや国内だけのものでなくグローバルコンテンツということを認識し始めて表現一つ一つに気を遣うことになったのだ」と話した。また、「いわゆるグローバル世代である最近の10~30代が社会問題に対する批判的意識が高いなど、世代が変わったのも変化の理由」といった。
K-POPはその意味でも最初からメディア的でした。権威と権利が中心となって動かす旧来の音楽空間がマスメディ的だとすれば、現在のK-POPは誰かに絶対的な権威と権利を託さない状態でファンも一緒に作っていく「ソーシャルメディア的な想像力」とでも言いましょうか。こういう転換は世界のポップカルチャー全体で起こっていたけど、K-POPはさまざまな要素が絡み合ってどこよりも早く対応できたんだと思います。
BTSはメンバー自身が作曲や作詞に携わるなど、個人の世界観が音楽に反映される。若者たちはそこに共感してアクセスしたんだと思います。先ほど申し上げた「激しい競争の中で努力しつづけなければならない状況」も、彼らは隠すことなくむしろ自分たちの物語として共有しようとする。新自由主義も、格差の拡大も、未来への不安も、韓国社会だけの問題ではないわけですから、世界の多くの若者がそれに共感した。
日本ではアーティストなどが社会問題に関する発言をすると、その内容以前に「音楽に政治を持ち込むな」とバッシングされることも少なくない。金さんは今回のテレビ朝日の判断を「K-POPという音楽空間と日本のマスメディアのずれ」から起きた問題だと見ている。
K-POPの人気を考える上で欠かせないのがファン、そしてファンたちの能動的なネットワーク「ファンダム」の存在だ。
CDが売れなくなりコンサートなどのリアルな場やSNSなどネットでの影響力が重視されるようになるにつれ、ファンダムの存在感も増していったという。今では楽曲の方針はもちろん、「事務所は働かせ過ぎだ」など運営に対しても意見を言い、軌道修正を促す文化も定着している。
BTSはメンバー自身が作詞作曲に参加し、韓国の画一的な教育や階級社会、新自由主義への批判、それに疲弊した若者の気持ちを歌ってきた。金さんはこれらは世界共通の課題であり、グローバルな共感を集めている要因の一つだと見ている。
4.エンタメとファンダム
2010年代、セレブリティーは一気にファンと近い存在になった。ある意味、近くなりすぎて、後半にはトキシックファンダム(有害なファンダム)問題が深刻化した。今振り返ると、SNSはセレブとファンダムをどう変えたのだろうか?
インターネットを手に入れて、ファンたちは集いやすくなったし、お目当ての商品も簡単に手に入るようになった。オンラインファンダムは活性化していき、その規模と存在感を増していった。
SNSは、ファンとセレブが簡単につながれる素敵なユートピアを築いたのだ。
「共感できるスター」需要は今現在も続いている。代表格は、K-POPグループとして異例の国際ヒットを遂げたBTSだ。北米ヒット要因として頻出されるのは「共感される社会的メッセージ」、そして「強力なSNSファンダム戦略」。BTSは若者が抱える悩みを表現し、ファンの連帯を重視し、ファンが喜ぶコンテンツを大量供給する。世界中のファンたちは彼らの言葉を自国語に翻訳し、SNSでファンダムに拡散していく。「SNSありきのポップスター」のひとつの完成形だ。
テイラー・スウィフトのオンラインにおける栄光と転落は、2010年代中盤の「セレブリティーへの信頼」の降下を表しているかもしれない。ただし、同時に「世の中の評判に左右されない強靭なファンダム」の存在も立証したと言えよう。
『ファンダム・レボリューション:SNS時代の新たな熱狂』(ゾーイ・フラード=ブラナー、アーロン・M・グレイザー著、早川書房刊)では、多くのファンは自分の愛する対象が商業的であることを理解していると説かれている。ファンオブジェクトの「物語」に「リアリティー」を見出し、あえて「騙されること」を楽しむのがファン活動である、と。
SNSが普及した現在はアイドルやアーティストのファン同士が繋がり合い、密接に情報を交換し合うことが容易になっている時代でもある。特に熱心なファンは濃く、ハイコンテクストな文脈を共有し、独自の行動様式や文化を生み出す「ファンダム」を形成する。
21世紀は、いわば「ファンダムの時代」だ。ヒットチャートで首位になるようなアイドルやアーティストであっても(いや、むしろそうであればあるほど)、マニアックなファンに支えられている。そして、そうしたファンダムに向けてアイドルやアーティストの事務所は「ファミリー化」を打ち出す。1つのグループのファンは、ファンダム内での情報交換によって派生するグループや下の世代のグループのファンになる。ジャニーズ系、EXILEを筆頭としたLDH勢、AKBなどの48グループや乃木坂46などの坂道シリーズが象徴的だ。躍進著しいK-POP勢にもそうした面がある。
また、こうした芸能事務所の結束をもとにしたファンダムの形成とファミリー化だけでなく、特定のジャンルやカテゴリーのファンコミュニティが形成され、それがシーンの隆盛を支えていることも多い。たとえばビジュアル系やアニソンなどもそれに当たる。ロックフェスを中心に市場が形成され「邦ロック」というカテゴライズが言われるようになったロックバンドのシーンにもそうした面がある。演歌というカテゴリーも独自のファンコミュニティによって支えられている。
一方で、21世紀は「アテンションの時代」でもある。デレク・トンプソン(『アトランティック』誌編集主任)が著書『ヒットの設計図』で分析したように、人気や流行を生み出すのはいつの時代も露出の力だ。心理学に「単純接触効果」という言葉がある通り、多くの人には繰り返し接したものに好意度や印象が高まるという傾向がある。
今の日本の情報環境において、もはや「お茶の間」は存在しない。たとえ視聴者が数千万人単位でいようとも、それは「マス=大衆」という集団ではなく、さまざまなカテゴリーのファンダムと、そこに一切興味を持たず身近な家族や友人と共有する話題性(=アテンション)のみに関心を持つ「無趣味層」の集合体でしかない。
5.音楽専門外からの知ったかぶり記事とその反論
BTSは10月25日に初めて英語の曲を米国で発売した。だが残念ながら売り上げはパッとせず、全米シングルチャート「ビルボード100」ランキングでは、現時点で最高89位にとどまっている。どうもBTSやK-POPが米国で旋風を巻き起こしているというのは言い過ぎのように感じる。
アーティストとしての評判は米英の評価を見ている限り芳しくないようだ。英ガーディアン紙の評価は「あまりにありふれた作品」と特に辛辣(しんらつ)で、「曲を聞いたすぐ後でも何も記憶に残らない。右から入った音楽がそのまま左の耳から出ていってしまい、何の印象もない」と書き、「ソーシャルメディアのファンの力による口コミをここまでうまく生かしたものはなかった」と皮肉っている。
5.政治化するエンタメ
政治とエンタテインメントの関係性は、人を政治や社会的課題に目を向けるパワーも持ちつつ、一方的なバイアスをさらに強めるリスクも孕んでいる。最終的には、個々人と価値を共有するクリエイターや、自分と似たような環境で育ったアーティストが支持されやすい現代の嗜好がここにも現れている。しかし、さまざまなアジェンダを忖度しなければいけなくなった政治家よりも、先鋭された価値共感で連帯するエンタテインメントに、個人がアイデンティティを見出すのは必然的と言える。あるいは、ポスト・トゥルース時代の答えが、政治化するエンタテインメントなのかもしれない。
今回の特集では、政権や国歌の話は出てこない。クリエイターと政治家との間に優越を付けたいわけでもない。エンタテインメントやポップカルチャーと情報社会または社会的モチーフの関係性を探り、世の中を動かす原動力を再評価したいと考えた。もしくは現代では、ただ消費されるばかりの政治やエンタメしか必要とされていないのだろうか?
無課金感覚で音楽が聴かれるストリーミング時代、重要なのは目立つことだ。そのためアートワークの重要度も増したとされるし、アーティストによるセルフイメージ戦略への注目度も向上した。重要な戦場は勿論ソーシャルメディア。レーベルや旧来メディアの影響力が低下し、セレブリティのパワーが増したとされる今、何が起きているのか。ドレイクにビヨンセ、カニエ・ウエストにSoundCloudラッパー、そして「影の王者」の戦術を探ってみよう。