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嗚呼、素晴らしき棲み分け社会。

先日代官山に散歩をしてきた。
代官山といえばセレブが住む街として有名なところだ。
そこの街並みはいかにも高級住宅街といった感じで、目を見張るデザイン性に富んだ建築があちこちにあった。代官山にいた人たちは夏でもないのに高級そうなサングラスをかけ、毛並みの揃ったいかにもトリミングに金がかかってそうなプードルをそばに置き、優雅なランチを楽しむ。

私は19歳になるまでダイカンヤマなんて知らなかった。
ダイカンヤマなんて聞いたことがなかった。
初めて地名を聞いたときはフジサン、タカオサン、ダイカンヤマと、日本の名峰かなんかなのかと思っていたくらいだ。

ここ、代官山に住む人たちと、ダイカンヤマを知らない僕との差にあるのはなんだろう。

答えはだ。

ひいては、場所と金の関係は棲み分け社会に起因すると考えた。


私がいう棲み分け社会とは、金持ちがさらに金持ちになり、貧乏人がさらに貧乏人になっていくという構図のことを言っている。

私は今地元の埼玉県の塾講師のアルバイトと港区麻布十番でのアルバイトを掛け持ちでやっている。私の地元は、銭湯の帰り道にヤクをやった後の注射針が落ちていたり、大麻の匂いがしたりするほど治安が悪い。地元と麻布十番を比べたら天と地ほどの違いがある。

誰でも簡単にお金持ちになる方法として、一般的な意見として高学歴になることが挙げられる。
偏差値の高い大学に入学し、普通の学生生活を送り普通に卒業することができれば、名の知れた企業に就職し、普通に高い給料がもらえる。

しかし、貧乏人が高学歴になるという機会すらも棲み分け社会では例外に値する。



棲み分け社会の構図

金持ちは基本都心に住むことができる。都心の高い家賃、ローンでも払うことができる上に、都心に勤務先があるからだ。そう言った理由で都心には上流階級の情報が流れる。彼らには金銭的余裕があるためその情報を手に入れ、若い時に価値のある経験を手にする。その経験と元々の資金力を武器にまたさらに金を稼ぐ。
その正の循環が何代にもわたって続いていく。

一方、下流階級の人には金がない。金がないから若い時に価値のある経験ができない。具体的に言えば若い時代は、バイトで休日の予定が埋まり、経験をするための時間すら与えられない。もらった月数万円の給料は日々の食事代、洋服代であっという間に底をつく。そうこうしている間に若さを失う。経験をしないまま若さを失う。彼らの周りには有意義な経験をしていない層が集まるため、自らの”貧しさ”に気づくことが出来ない。下流階級にどっぷりと浸かっているために、”貧しい”状態から抜け出すことなどよぎらない。
その負の循環が何代も何代も続いていく。


先ほど例に挙げた、貧乏人から高学歴になることすらも例外に値するということもこれに当てはまる。情報の集まらない非都心では高学歴になりたいと思ったとしても、受験のライバルがどんなレベルなのか、何をどう勉強すればいいのか知っている人があまりにも少なすぎるのである。

私は周りの上流階級の人々を見るたびに本気でムカついている。その怒りには嫉妬もあるのだが、自身のコンプレックスに対しての怒りと棲み分け社会に対する怒りの割合が大きい。
彼らは地震がどれだけ恵まれた環境で育ってきたのか微塵も感じることはない。
そう思うたびに、私と彼らとの当たり前の差がこんなにも痛いものなのかと痛感させられる。

それでも、それが現実なのだろう。

は自分の足で歩き、自分の目で見て、自分の舌で味わい、経験をするしかないし、しなくてはならない。

下流層でコンプレックスまみれの私は、経験することで怒りを蓄えそれを燃料にするしかないのだ。

歯を食いしばりながら、私は代官山を後にした。

嗚呼、素晴らしき棲み分け社会。


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