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【Episode 3】ひとりさみしいときは

ひとりさみしいときは

昨日、恋人に別れを告げられた。
「もうだめだと思う。だから、今日でおしまい」
 そんなどこにでもある言葉だけで、わたしたちが一緒に過ごしていた2年半はあっけなく終わった。なぜか、涙は出なかった。現実感がないままに終わってしまったから、今はそんなものなんだろう。
 わたしは、恋人に何を伝えていいかわからなくて、とりあえず「ありがとう」と言った。電話が切れてから、ひとり、こんなわたしが彼女でごめんね、と呟いた。
 そんな日の朝はとても暗い。窓の外を見ると、厚い灰色の雲が広がっていた。今にも泣きだしそうな空はわたしのようだった。悲しくなんかない、と自分を奮い立たせる。今日も、昨日までと変わらない一日が始まる。
 午前8時30分。パソコンを開いて、授業の準備をする。1年間続いたオンライン授業も、あと数週間で終わる。まさか、それまでの間に恋人がわたしのもとを去るなんて考えもしなかった。おっと、いけない。ブルーライトカットメガネを忘れていた。今日は6時間ほどパソコンを見る予定だから、きちんとメガネをかけておかないと頭痛がしてしまう。これは自分を守るためのメガネなのだ。
 午前8時40分、授業が始まる。この時間の英語の授業は、毎回、先生が哲学的な問いを立ててくる。それについて履修者で話し合う、という授業だ。前回の授業のときには「なぜ人は幸せになりたいのか?」と訊かれ、困った気がする。たしか、わたしは「一度きりの人生をよりよく生きたいと思うから」と答えを出した。
 今日の問いは、「なぜ人は愛を求めるのか。愛とはなにか。」だった。
 今のわたしには痛い質問だった。
 何も発言できないまま、皆の考える答えをただ聞いていた。
 愛ってなんだ。わたしと恋人――いや、もう恋人ではない。元恋人との間にあったものは、愛だったのだろうか。それとも、ただ、恋をしていただけだったのか。そもそも、愛も恋も存在しなかったのだろうか。
 考えても答えは出ないまま、授業終了5分前がおとずれた。
 今日の授業はどうだったかというアンケートに、何を書けばいいかわからなくなった。正直、授業で皆がどのような答えを出していたかもはっきりと覚えてはいない。
「愛は大きすぎてわかりませんでした。」
 そう書いて、提出ボタンを押した。

 午後12時。今日は13時からバイトがあるから、一駅だけ移動しなきゃいけない。自転車を使うのは寒いからいやだと思ってしまった。今日くらい許して、と誰に言うわけでもないが、今日は贅沢することにした。電車を使うために駅へ向かって歩き始めた。
 電車に乗るのは久しぶりだった。たった一駅乗るだけなのに、遠足に行く小学生のような気持ちになった。
 電車の中には、人がまばらに座っていた。今のわたしの心を映し出したようなその車内で、わたしはひとり、立っていた。
 電車で走る一駅の距離は思っていたよりも短かった。水島、という場所がそう思わせるのかもしれない。約1キロメートル。栄駅までの道は短かった。でも、いつもより長い時間電車に揺られているような感覚になった。
 栄駅は、元恋人の家からの最寄り駅だった。午後9時、一緒に缶チューハイを開けて、お酒に弱いわたしは1本飲み切らないうちに元恋人の部屋ですやすやと寝息を立ててしまっていた。わたしが目を覚ますまで、隣でスマホを見たり、本を読んだりしながら待ってくれていた姿が好きだった。ときどき一緒に寝てしまって、朝、二人で「やばい、授業間に合わないね」と焦りながら支度をするのが楽しかった。1限の講義がある日には、駅まで車で送ってくれるのが嬉しかった。あの人の運転する車は乗り心地がとてもよくて、駅につくまでの間に寝てしまいそうになる、あの時間が大好きだった。
 どれもこれも、思い出しても、もう戻ってこない時間だった。
 電車を降り、駅を出る。見慣れたオブジェがわたしを出迎えた。
「白い森っていうんだよ、あれ」
 そう教えてくれた元恋人を思い出す。懐かしいな、と思うと同時に、もう会えないのか、と悲しくなった。
 白い森は、今日も風に揺れる。朝降っていた雨は上がり、青空が見えるようになっていた。澄んだ空気の中で、明るい気持ちになんてなれずに、歩き始めようとした時だった。
「え、なにしてるの?」
 聞き慣れた声が耳に飛び込む。昨日、わたしに別れを告げたその声の持ち主の方を見ることはできなかった。
「13時からバイト。今日は移動に電車を使ったの」
「そっか。頑張ってね」
 それじゃ、と言ったのを最後に、声は聞こえなくなった。わたしの後ろに、足音が遠ざかっていく。たしかにあなたはいた。どうしてここにいるの、なんてわたしが聞きたかったよ。
 時計を見る。午後12時30分。バイトまであと30分だ。
 一度だけ、振り返った。
 あなたの姿はそこにはなかった。

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 午後3時30分。元恋人のことを忘れようと、いつもよりも集中してひたすら仕事をした。
 そのせいか、いつもよりも疲れを感じている。早く帰って、お風呂に入って、もう寝てしまいたかった。しかし、そうもいかないのが現実だった。
「有島さん、このあと時間ある?」
 そう尋ねてきたのは桜田さんだ。バイト先の先輩で、なぜかわたしのことをよく気にかけてくれる。
「あ、まあ、時間はありますけど……」
 思わず答えに詰まってしまったことは気にしていなさそうだった。
「よかった!今日、俺も暇だから夜ごはん行こうよ」
 桜田さんの勢いと屈託のない笑顔に押されて、いいですよ、と答えた。

 午後4時。桜田さんがお迎えに来てくれるのは19時だから、それまでに準備をしなければならない。恋人がいたときには異性と二人でご飯に行くなんてことなかった。だから、2年半ぶり。
 気分は相変わらず浮かないけれど、何もしないまま家にいるよりはましだと思う。出かけるための服をクローゼットから引っ張り出す。いくつか候補を出してみて、一番カジュアルな服を選んだ。
 午後7時。わたしの家の一番近くの駅、弥生駅で桜田さんは待ってくれていた。陽が落ちてしまって寒い。マフラーに顔を埋めた彼はわたしを見つけると、誘ってくれた時と同じ笑顔でこちらへ歩いてきた。
「来てくれてありがとう。それじゃ、行こっか」
 そう言って、助手席のドアを開ける。きっとこの人、誰にでも優しいんだろうな。女の子がどうすれば喜ぶか、知ってるんだろうな。いわゆるモテる人なんだろうな。そう思った。
 彼が連れてきてくれたのは、わたしが知らない居酒屋だった。
「え、居酒屋……桜田さん、こんなお店来るんですね」
「もちろん。俺、どんな人だと思われてるの」
 全く行かないとは思っていなかったが、異性と食事をするときに居酒屋を選ぶとは思っていなかったから驚いた。
「まあ、ほかにも候補はあったんだけど……今の有島さんはこういうところがいいかなって」
「え?」
「あ、いや、まったく見る気はなかったんだよ?でも、ね、ほら、スマホ……」
 そう言われて気がついた。昨日、別れを告げられ、電話を切って一番にわたしはスマホのロック画面の背景を変えていた。恋人と二人、笑顔で写っていた写真を、去年のお花見で撮った桜の写真にした。
 桜田さんはその画面を覗き見るつもりはなかったのだろう。でも、偶然目に入ったロック画面の画像が変わっていたら誰だって気になると思う。
「……お気づきの通り、です」
 そう言うしかなかった。
「よし!今日は飲むぞ!」
 彼は今日車に乗っているから飲めないはずだし、きっとわたしがお酒に弱いことを知らない。けれど、その心遣いが嬉しかった。
 それから、彼とはいろんな話をした。なぜ別れを告げられたのかわからないということ。2年半は意外と長いということ。わたしがうまくやれば、まだ続いていたのか、と考えたこと。悲しいのに、なぜか涙が出なかったこと。
「有島ちゃん、安心しな」
 桜田さんは、一言だけ、わたしに言った。いつの間にか、わたしの呼び方が変わっていることには気づいていないことにした。
「有島ちゃん、まだ先は長いから。少しくらい失敗したっていいんだよ。最初から完璧にできることなんてないんだから」
 その言葉で、昨日からずっと降っていた雪が止んだような感情を覚えた。どうすれば抜け出せるのかわからなかった暗闇の中に、光が差した気がした。
 午後10時。桜田さんはわたしを家まで送り届けてくれた。ご飯のお金は払わせてくれないし、駅まででいいと言ったのも「女の子がこんな遅い時間に一人で歩いちゃだめだから」と言って聞かなかった。
 ありがとうございました、と言って、ドアを閉める。そして、小さくなっていく彼の車を見送る。
 気分が少し軽くなったのは桜田さんのおかげだろう。
 でも、桜田さんの乗る車が見えなくなって、家のドアを開けようとした瞬間、何かが崩れたように泣き出してしまった。
 崩れたのは、涙腺なのか、閉じ込めていたさみしさだったのか。
 そのあとは、お風呂に入り、そのまま寝た。思っていたよりも寝つきがよかった。数時間は寝られずにごろごろすることになると思っていたが、お酒の力も働いてすぐに寝られた。
 桜田さんに電話かけてみようか、とも思った。でも、できなかった。
 ひとりさみしいときは、誰かに頼ればいいんだよ。それは元恋人の言葉だった。
 そう言ってくれた恋人はわたしのもとを離れてしまった。今頼れそうな桜田さんに、「電話かけてもいいですか」とメッセージを送るだけの勇気はわたしにはなかった。
 今、わたしは誰に頼ればいいの……?
 そんな思いを抱え、また少しだけ泣いて、目を閉じた。

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 次の日は、休みなのをいいことにひたすら寝続けた。時間も、食事も、大学の課題も、何もかも知らんふりして寝ていた。何度も何度も目が覚めた。そのたびに目を閉じて、無理やりにでもまた寝た。
 午後4時30分。さすがに寝すぎて頭が痛くなってきたので、仕方なく体を起こした。外の空気が吸いたくなったから、駅まで散歩することにした。
 弥生駅の近くで、不思議な形のオブジェを見つけた。ネットで検索をかけると、「水の精」という名前の彫刻作品らしい。水島臨海鉄道の彫刻作品をまとめてあるページには、「二つのピースがお互いにふれ合う様な形として、暖かい人々の心をも表現したつもりである。」と書かれていた。スマホから目を離して「水の精」と向かい合う。
 人との繋がりは流動的に続いていく、と教えてくれているようだった。
 オブジェの隙間から、沈みつつある太陽の光が差し込んでいた。あまりの眩しさに一瞬目を閉じたが、改めてその光の方に目を向ける。
 暗いままではいけない。前に進まなきゃいけない。そう、思わされた。
 その先に、もう一つ、彫刻作品があるらしい。その作品を見て、今日は帰ろう。軽くなった心と一緒に、オブジェの向こう側へ、歩き始めた。
もう一つのオブジェは、すぐに見つかった。「MATANA」という名前であることは、さっき見たサイトに書いてあった。倉敷というまちでは、人と人との別れのあいさつに「またな」と声を掛け合うから、という理由でそんな名前になったらしい。またな、が言えなくなった関係に気持ちが重くなっていた今のわたしには少し辛い響きだった。
 でも、もう先へ進むって決めたから。
 泣くのは昨日の一度きりでいいんだ。わたしとあの人の終わりを、そんな暗いものにしたくない。
 わたしは、「MATANA」の前で、ひとり、今はもう届かないメッセージを声にした。

 今までありがとう。
 またね、恋人だった人。
 またね、瑞葵ちゃん。

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写真について

 この作品には3枚の写真が登場します。トップの木の写真も入れると4枚です。
 「白い森」は水島臨海鉄道栄駅で撮影しました。それ以外は、水島臨海鉄道弥生駅周辺で撮影したものです。

・木の写真を除いた3つの写真に写っている彫刻作品について

 1枚目の写真に写っている彫刻作品は「白い森」です。制作年は1994年、作者は新宮晋さん。
 2枚目の写真に写っている彫刻作品は「水の精」です。制作年は1993年、作者は速水史朗さん。
 3枚目の写真に写っている彫刻作品は「MATANA」です。制作年は1994年、作者は流政之さん。
 詳しくは、倉敷市のホームページを見てください。

作品について

 有島ちゃんと瑞葵ちゃんの関係も、どこにでもよくあるような恋の終わりなのかもしれません。
 ただ、当人たちにとっては大きな出来事であることはたしか。

 新型コロナウイルス感染症の流行によってわたしたちの生活はいとも簡単に変えられてしまいました。わたしも、大学入学という、ただでさえ環境の変化が大きい時期に重なってしまって今までで一番しんどい時期だと思っていました。それでも、何もなかったかのように朝と夜を繰り返している。世界は、生活は、どんなことがあったって変わらず続いていくものなんだな、とも思いました。実際、この作品に一番思い入れがあります。
 この作品が一番自分自身の考えや書いた時の状況、感情があらわれている気がします。有島はもしかしたらわたし自身なのかもしれません。それと同じように、桜田さんにもモデルとなる人たちがいます。志塾で出会った人たちが、そのモデルになってくれています。
 作中で桜田さんが『少しくらい失敗したっていいんだよ。』と言っているシーンがあるのですが……
 このシーンで桜田さんが言っていることって、わたしが実際に言ってもらった言葉なんです。わたしが言ってもらってすごく心が軽くなった言葉だったので、少しだけ使わせてもらっちゃいました。この場を借りてお伝えします。ありがとうございます!!

 岡山のバンドの大好きな曲。
 書き上げて、冷静になってから読むと「これもしかして影響受けてる?」みたいなところがちらちら出てくる。だから紹介しておきます。

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