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ごちゃまぜ

昨日、今日と、お寺で春の彼岸の法要だった。1歳半の子どもを連れて、実家に帰省。この前に子どもと帰省したのが、去年の御正忌報恩講だったので、約4ヶ月ぶりに、お世話になっている門徒の方々に子どもの元気に、すくすく成長している姿を見せることができて良かった。

法要は昼過ぎからで、その前に中心になってお寺のことを手伝ってくださっている方々と一緒に昼ご飯を食べる。そのあとに少し時間があるから、子どもと外で遊ぼうとすると、一人のおばあちゃんが一緒についてきてくれた。

そのおばあちゃんは、ずっとお寺の婦人会の代表をつとめてくださった方。町の出ごとにも顔をだして本当に多くの方に慕われていた方。僕が結婚するときに、結納で、お寺を代表して、妻の実家にも一緒についてきてくれた。娘さんは私たちが面倒みるから心配しないでね、と。

その方の様子が少し変わったなと思ったのは、もう5年ほど前。最初は物忘れがひどくなったなという程度だったが、認知症の進行は早かった。いまでは、一緒に住んでいるご主人のことしか分からない様子。ご自身の子どものことも分からないそう。それでも、うちのお節介な母親が、お寺の法要がつとまればお寺にお参りするようにご主人にお願いするし、お寺の皆んなで旅行にいくときは私が面倒みるからと言って旅行にも連れていく(ここ最近は夜中に何度も起きてしまい、母もさすがにもう難しいそうだと音をあげていた)。母してはずっとお世話になった方だから少しでもその方の心地の良い時間をつくってあげたいという想いと、ご主人も一人でみるのは大変だろうから少しでも息抜きになればとの想いがあるよう。なので、今日の法要にも夫婦してお参りしてくれていた。

皆んなで一緒に昼ご飯を食べて、そのおばあちゃんと僕らだけ残った。「その子どもはどこの子ね?」「いくつなの?」「名前は?」と同じ質問を5回ぐらい受けた後、そのおばあちゃんと、子どもと、僕と妻で、お寺の周りを散歩した。日が照っていたけど、風が強く、少し肌寒い。うちのお寺は高台にあるので、どこに行くにしても、急な坂をおりていかないといけないし、帰りはのぼらなくてはいけない。少し歩き、上り坂のところで、なんと、子どもからおばあちゃんの手を握り、手をつなぐ。そのあとも手をつないだまま散歩を続け、少しいったところで、子どもは道端に咲いているたんぽぽを見つけ、摘んで、遊ぶ。「あんた、それは食べちゃダメよ。美味しくないわ、やめときなさい」と、おばあちゃん。また歩きはじめ、塀のところを歩いていると「あんた、すごいね。そんなところ歩けるの。だけど、危ないから気をつけるんよ」と。歩きながら、子どもがテンション上がって踊りだすと、おばあちゃんも一緒に踊ってくれる。陽気な優しいおばあちゃん。ゆっくりとお寺の周りを30分くらいかけての散歩だった。

そんな様子を見ながら、金沢の社会福祉法人、佛子園の取り組みを思い出していた。キーワードはごちゃまぜ。

一緒に散歩し終えて、めっちゃ感じたのが、それぞれに支えあっていたな、と。たかが30分程度の散歩なんだけど、手を取りあい、微笑みあった。おばあちゃんも、子どもが転ばないように危ないとこいかないように気をつけてくれたし、たんぽぽ食べるの注意してくれて、一緒に踊ってくれた。子どもも、坂を登るときに、おばあちゃんの手をひいた。お互いに、お互いを気にかけていた。そんな地域や関係性を築くために、場や空間のデザインが必要だなと感じる。自然発生が理想なのかもしれないけれど、田舎であっても関係性が希薄になり、縦割りの行政サービスが中心の現代社会では、それが生み出されるための因子が少ないように感じてる。

僕が理想のお寺のあり方や未来、場をどのように描くのか。それが本当に皆んなにとって幸せなのか正直分からないけど、それは自分自身を信じて一生懸命にやっていきたい。一人では無理、色んな人の力を借りながら。

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