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出るはずのない電話【小説】

穏やかな午後。近所のカフェ。

窓際の席に座る男性が目に付いた。脚を組んでコーヒーを口に運ぶ気取った仕草が夫に似ている。顔立ちもどこか夫を思い起こさせた。ほら、あの無駄にキリッとした眉なんてそっくりじゃないか。

その存在だけで、午後のティータイムを台無しにするには十分だった。嫌な思い出ばかりがふつふつと頭に浮かんでくる。

じろじろと見過ぎたようだった。わたしの視線に気づいて、男が顔を上げる。わたしはすぐに目を逸らした。不審に思われただろうか。わたしは両手で包むようにカップを持ち、紅茶を口に運んだ。そーっと視線を上げると、彼はまだこちらを見ていた。微笑んでいる。

ぞわっと背中の毛が逆立つのが分かった。

わたしが好意を持っているとでも勘違いしているのだろうか。彼はニコニコしながらこっちに向かってまっすぐ歩いてきた。

わたしはすかさず携帯端末を取りだすと、番号をプッシュした。話しかけられるなんて最悪だ。電話しているフリをして、このまま店を出よう。

――トゥントゥン、トゥントゥン。

呼出音が鳴る。かけたのは自宅の番号だ。今は一人住まいとなったので、受話器を取る者はだれもいない。

「あ」

わたしは抜けた声をもらして、一瞬凍り付いたように静止した。異常事態だった。呼出音が止んだのだ。

わたしは思わず携帯端末を見つめた。画面には『通話中』の文字が表示されている。

「だれ?」

相手は無言だった。でも息遣いが聞こえる。受話器の向こうにだれかがいるのは間違いなかった。

「ねえだれよ」
――……て。……て。
音が不明瞭だった。
「え? なに?」
――……て。……して。
「なによ。聞こえないわ」
――ツーツーツー。

機械音が虚しく響いた。電話は切れていた。

すぐに発信履歴を確認する。自宅の番号で間違いなかった。ということは、いまわたしの家に何者かがいて、受話器を手に取ったということだ。空き巣だろうか。

「大丈夫ですか」
声をかけられた。さっきの夫似の男だった。「顔色が悪いですが」
「大丈夫です」
「具合が悪いなら病院に送りましょうか」
「ほっといてください」

わたしは男を押しのけると、勘定を済ませて店を出た。

十分ほどで我が家に着いた。35年ローンで買った一軒家だ。外から見た限り異変は見られない。

玄関を開けようとする。しかしドアノブは回らない。出かけるときにわたしが鍵をかけたので当然だが。電話を取った何者かは裏から侵入したのだろうか。

キーで鍵を開け、ゆっくりと扉を開いた。なかを覗きこむ。だれもいない。わたしの靴だけがきれいに並んでいる。変わった点はない。

音を忍ばせてなかに入った。立てかけてあった傘を手に取った。もしものときは武器にするつもりだ。

物音に気を配り、忍び足で探索を開始する。まずは寝室だ。大切なものはだいたいここのクローゼットに仕舞ってあるのだ。通帳、印鑑、クレジットカード、見られては困るもの……。よし、異常なし。

化粧台のなかの指輪やネックレスも無事だ。荒らされた形跡もない。

リビング、台所、風呂場、トイレも異常なし。二階も見て回ったが問題なかった。これはどういうわけか。

わたしはリビングに戻って電話機を確認した。十六分まえの時刻にわたしがかけた着信履歴が残っていた。そのときに間違いなくこの受話器を手に取った人物がいたはずだ。

わたしは電話機をまえにして、携帯端末で再度電話をかけてみた。

わたしの携帯端末から呼出音が鳴る。目のまえの電話機もけたたましく音を立てる。もちろんだれも出るはずがない。

――はずだった。

「うそよ……」

こんなことは起こりえない。呼出音はすでに止んでいた。代わりに電話口の向こうから何者かの気配を感じる。携帯端末の画面は『通話中』だ。家の電話機はテーブルのうえにちょこんと乗って静かにたたずんでいる。受話器に触れる者はだれもいない。

おそるおそる携帯端末を耳に押しあてると、かすれた声が聞こえてきた。

――……。……て。……して。
「え? して? どういうこと?」

テーブルのうえの電話機をよくよく見てみると、『コキ シヨウチュウ』と表示されていた。子機は寝室にある。わたしは駆けだした。

傘を構えてゆっくりと寝室のドアノブを回す。

目に飛びこんできたのはいつも通りの風景だった。薄暗い部屋に並んだ二つのベッド。その脇のサイドテーブルに子機が置いてあった。近づいてみると、通話ボタンが光っている。

「どういうことなの」

携帯端末に目を落とす。通話中。繋がったままだ。わたしは携帯端末を耳に押しあてた。

「――出して」

耳元で、今度ははっきりと聞こえた。聞き覚えのある声。この耳に障る声は、夫のものだ。

だけど夫がしゃべれるはずないのだ。わたしが昨日包丁でなんども刺してビニール袋に入れてクローゼットに押しこんだのだから。

冷や汗と全身の震えが止まらないのは、その声が携帯端末からではなく、すぐ後ろのクローゼットから聞こえてくるからだった。

「出して。出して。出して」

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