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誰にでも愛されることはやめにする。

私は誰にでも愛されていたいのだ。

それに気づいたのは21歳になった私。大人であることを必死に主張するかのように、手には緑のマルボロとシルバーのオイルライターを握っていた。

愛されたい衝動の原因は中学生時代にまで遡る。ひょんなことから周囲から嫌われる事件があった。当時の私は「強い女」に憧れ、演じていたため、嫌われることをさも気にしていないかのように扱った。それがかっこよかったから。

当時の私は「気にしていない私かっこいい」と思い込んでいたため気付いていなかったが、この時点で私は人から嫌われることをひどく恐れるようになる。

ただ私がとった行動は私を嫌っている人間に媚を売るのではなく、私に好意や興味がある人間を余すことなく受け入れるという手段に出た。

最悪である。

何が最悪ってそれが対人関係すべてにおいて、つまり恋愛も例外ではないということ。罪悪感はあれど、沢山の愛情やただの興味までも受け入れてしまった。

だのに私のTwitterの裏垢では狂ったように「誰かの一番になりたい。」と書き殴ってあった。自分のなかの一番を決められない癖に誰かの特別や一番になれないと不安になり、不安を埋めるように他の好意を飲み込んだ。

「おまえを一番愛している。」と言われても私の「誰かの一番になりたい。」が埋まることはなかったから、この衝動はきっと一生埋まらないものなのだということは大人になって気付いた。みんなそうなのだろう 皆心のどこかにこういった小さな衝動の穴が空いていて、その穴に風を通しながら生きているのだろう。

ともあれそうやって中学生から現在にかけて生きてきてしまったおかげで、沢山の好意を得たものの、方法が方法なだけに見返りが大きかった。

本当に私のことを好いてくれていた人ほど怒った。本当に私を想ってくれていた人ほど私から離れた。当たり前だ。

このままではいけない!

気付くの遅くね?は言わぬが花 今気づけただけで花丸が欲しい。元恋人が罵り、今の恋人が私を諭さなければきっとわたしはいつまでも受け入れ態勢のフリーダイヤル女だったであろう。

誰かに嫌われてもいいなんて死んでも思えないけれど、自分のことが嫌いな人間がいることを受け入れられたのは大きな一歩なのだと思う。

私は誰にでも愛されていたかったけれど、誰にでも愛されようとするのはもうやめることにする。私は私の好きな人を、正直に愛したいと思う。愛情を表現することには長けてはいないけれど、それはこれから半世紀くらいかけて練習しよう、気長に付き合ってくれる人を傍において。



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