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真夏の君へ

昔、たむろしていた神社の軒下で彼女はよく

「暑くて死にそう!」

と猛暑が続く夏に、汗をダラダラと垂らしながら訴えかけてきた。当たり前だ。神社の屋根ひとつ程度では暑さを凌ぐことは出来ない。

「人間そんな簡単に死なないよ。」

と自販機で買ってきたペットボトルを首元に当てると、眉間に皺を寄せながら強く目を瞑り冷たさを堪える。ゆっくりと力を緩めながら目を開くと「ありがとう!」と向日葵のような笑顔で笑った。


そんな彼女はこの夏に暑さではなく、病で死んだ。

冬に病が見つかると、そこからはあっという間で坂から転がり落ちるように衰弱していった。どこか彼女は大丈夫なのだろうと現実から目を背けていた。死ぬほどのことは無いと。あの暑い夏に彼女へ言い放った言葉のように。


彼女の葬儀も痛いくらいの日差しがさす晴天に執り行われた。喪服が熱を吸収して暑さが増す。ダラダラと零れる汗とは裏腹に、涙は1粒もこぼれない。この日差しで蒸発してしまったのだろうか。彼女の遺体にそっと触れると、あの時あげたペットボトルのようにひんやりとしていて、彼女の死が自分の内側に入ってくるようだった。その冷たさを手の内に閉じ込めるように拳を握りしめると、そのまま葬儀場を飛び出していた。耐えられない、耐えられない、彼女はまだあの夏にいるのでは無いだろうか。神社の軒下で暑さを訴えているのでは無いだろうか。歩くスピードがみるみる早くなっていく。気付けば息が切れるほど走っていた。苦しくて仕方が無い。汗がボタボタと風に吹かれては零れ落ちる。まるで涙のように顔を滴る。泣くことの出来ない自分を彼女は許してくれるだろうか。


あれから5年経っていた。毎年彼女の命日は墓ではなくあの神社に通った。未だに僕は彼女の為に泣くことが出来ない。それは彼女への思い入れが自分が思う以上に無かったのか。それとも死を受け入れられずにいるのか。答えはきっと後者だ。この5年間、街を歩いていて彼女に似た女性がいると思わずそうなのではないかと思ってしまう。彼女の死を頭では理解していても心から受け止めることが出来ないのだ。こんな姿を見せたら、女々しいと一喝されそうだ。

そんなことを思いながら神社に足を踏み入れる。彼女が亡くなってからこの日は晴天だったが、今年は初めて雨が降っていた。参拝を終えると雨足が強まっていた為、軒下に避難する。傘から雨水を払い落としていると、神社の支柱に小さな文字が掘られていることに気付いた。目を凝らしてもよく見えないので柱に顔を寄せる。その文字を読んだ自分は細めていた目を大きく見開いた。 

そこには「あつい!」の一言が刻まれていた。

ただそれだけ。ただそれだけなのに彼女だとすぐにわかった。彼女はあの夏からずっとここに居たのだと。そしてもう今はどこにも居ないこともわかってしまった。
初めて涙が零れた。とめどなく降りしきる雨と共に泣いた。彼女がいなくなった夏に走った時より何倍も苦しくて息が詰まる。嗚咽を出しながらも涙を止めようとは思わなかった。彼女を思い泣けることがきっと今の自分にとって幸せなことなのだと痛感していた。涙が枯れる頃、空は晴れていた。

僕は来年からきっとここには来ない。ここから少し離れた彼女の墓に足を運ぶだろう。彼女に良く似合う向日葵を持って。

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