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〈エッセイ〉 ハグ 【ともや】

もうすぐ2歳になる息子がいる。

まだ言葉は十分に喋られないが、もう彼は周りの状況や言葉をよく理解していて、自分の好きなもの、欲しいものを体で表現するようになってきた。

食事ひとつとっても、これは食べたくない、ボクはこれが食べたいんだと、首振りや指差しで伝えてくる。昨日まで美味しそうに食べてたじゃんって食べ物も、今日になると首を横に振られたりする。彼の中で、少しずつ彼の意思みたいなものが成長していることを感じる。

だからなのか、最近は気に食わないことがあると大泣きすることが増えた。

先日、仕事を終えて家の前に着くと、外からでも息子が大泣きしている声が聞こえた。家の中に入ると、2階の階段を上がったところで彼は大きな声で泣いていた。

妻に事情を聞くと、玄関でいつまでも靴を脱ごうとせず、いくら待っても脱がないため、無理やり脱がせて2階に連れてきたら大泣きになった、とのことだった。

今日は私がお風呂の当番なので、そそくさとお風呂の準備をする。息子はお風呂が好きなので、お風呂に浸からせてしまえば泣き止むだろうと思ったのだ。

ところが、浴室へ連れていき、お風呂に浸からせて、お風呂用のおもちゃを与えても、一向に泣き止まない。もはや玄関の靴がどうとかいうことではなく、彼はもう何が悲しくて泣いているのかも、泣き止む方法も、すべて忘れてしまったかのようだった。

私自身も困り果てて、どうしたものかと思案した。でも、彼のその悲しい顔を見ていると自然と手を差し伸べたくなった。湯船のなかで、そっと彼をハグした。胸に抱き寄せて、彼が苦しくない程度に抱きしめた。

泣き声は少しずつ静かになっていき、ヒックヒックと、彼の喉の音だけが浴室にこだました。それも少しずつ小さくなって、ついにはしんとなった。彼は私の胸にもたれかかり、そこを枕にしているようだった。

彼が呼吸をするたびに、彼の小さな体が膨らんだり、逆にしぼんだりするのが体を通してわかる。荒れていた呼吸のリズムが、少しずつ落ち着いていくのが伝わる。


ハグは、とても安心する。
息子を抱いていると、自分まで穏やかになっていくようだった。腕だけじゃなくて、全身が手になったかのように相手を包み込む。包み込んでいるように見えて、実は自分も相手に包み込まれている。それがハグだった。

私は、父親にハグをされたことがなかった。
親父の腕が得意だったのは、人を殴ることだった。その大きな手は、子どもを突き飛ばしたり、叩くためによく使われた。
私は親父の手が怖かった。親父の大きな体が怖かった。だから私にとって父親は、安心の拠り所ではなく緊張する所だった。

ハグが、こんなにも安らぎを与えてくれるものだなんて知らなかった。人の手や体が、こんな温かいものだなんて知らなかった。
人は、体一つでこんなにも人を安心させることができる。
息子を胸に抱きながら、自分の過去を思い出して泣きそうになった。


どのくらいそのままだっただろうか。
私が感傷に浸っているうちに、息子はずいぶんと立ち直り、小さな手で私の胸を押して、私から離れていった。いつも通り、お風呂のおもちゃでひとり遊びをはじめた。

おいおい、さっきまで大泣きしていたくせに。
そう思いながら、同時にそれでいいとも思った。

私はいつから人前で泣けなくなったのだろう。
人前で泣くのは恥ずかしいことで、人に慰めてもらうのは情けないことだと思うようになったのだろう。
そうやって自分でも気づかないうちに、私たちはたくさんの傷を抱えていく。

この人の前でなら泣いてもいい。
そう思える人が、ひとりでもいたら幸福だと思う。
一通り泣いて、目を腫らしたまま、また前を向いて歩き出せる。そういうところがひとつでもあると、勇気を持てる。


水に浮かせるタイプのおもちゃを、湯船でプカプカと浮かせたり、時には沈めたりして、きゃっきゃしている彼の姿を眺めながら祈る。

大泣きできて、そして泣き止むことができるところが、これからも彼に在り続けますように。
彼が「もう大丈夫」って言うその時まで、私たちが彼にとってのそういう場所でありますように。

このnoteは記録であり、誓い。
季節がどれだけ巡っても、まるで標本木のように、この日の気持ちを思い出すためのnote。

忘れそうになるたびに、きっと何度も戻ってくる。
そうして出会うたびに、きっと何度でも思い出す。


ともや


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