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猫と憂鬱

猫の望みはシンプルだ。快適な寝床とご飯があればいうことはない。
よく猫はわがままの代名詞に使われるけれど、この2つさえ提供できれば静かにしていてくれる。人間と比べたらなんと慎ましいことか。

朝方に淡い尿意を覚えて目が覚めた。眠気に負けてガマンできる程度の欲求だ。覚醒ついでに寝返りを打つと、彼はめざとく駆けつける。

おはよう、おはよう。
奇遇ですね、ぼくは起きていましたよ。いえいえ、じいっと見ていたわけじゃありません。ふいに見上げたら、寝ているときはちいっとも動かないあなたが、ひざを立てているじゃあ、ありませんか。
ぼくはただうれしくて、気がついたらここにいたって具合です。

おはよう。

うちの猫は雄弁だ。あまりにみゃぁあみゃあと鳴き続けるものだから、人間ならこれくらいの分量を喋っていなくちゃ尺が合わない。

彼がうちに来たのはこの2月で、きっかけはインターネットだった。
何の気なしに保護猫サイトを見ていたら、このつぶらな瞳の長毛種を見つけてしまったのだ。多頭飼いの面倒を見ていた高齢夫婦の奥様が認知症になってしまい、だんなさんが1年間がんばってみたけれどやっぱり老体には堪えて、区へ相談して保護猫のNPO法人を紹介してもらったそうだ。

一緒に飼われていた猫たちはいずれも血統書付きで、次々にもらわれていったのだが、彼は臆病すぎて面会時に顔を出すことがなく、結果、売れ残り状態になっていた。

猫種はスコティッシュフォールド。垂れ耳が特徴の人気の品種だ。彼の耳は折れているが、スコ独特のくりっとした目ではない。青いぎんなんつぶのように小さな瞳は、右目が少し小さい。そこが好きだ。彼が彼だという印だから。

飼い主が里子に出した保護猫なので、年齢ははっきりしている。2014年生まれ、今年で9歳だ。残念ながら誕生月は分からないけれど、うちに来た2月が、彼の誕生月ってことでいいだろう。

2月はわたしにとって猫の月だ。猫には縁のある方だが、自分で飼った猫は先代が初めてだった。彼女もスコティッシュの保護猫だったが、冬の公園でボストンバッグに詰められて捨てられていた。年齢は不明だがおよそ10歳。骨軟骨異形成症で歩きはよたよた、獣医に行ったら心肥大も見つかった。毎月獣医に通って薬を与え、ちょうど3年ほど一緒に暮らし、2年前の2月2日に見送った。
彼女はとても怒りん坊で、寝起きのぼうっとしているときしか触らせてもらえなかったが、晩年は穏やかになり、パンデミックの混乱の中、ステイホームで猫とずっと一緒にいられて救われた。

彼女のかわりを探していたわけではないんだけど、気がつけばまたスコだ。今度は健康な9歳だから、もう少し一緒にいられるかな。

こうやって猫との出会いを思い返している間にも、猫は変わらずみゃおみゃおと喋り続けている。年齢にそぐわない、子猫のようなかわいい声だ。

猫の要求はシンプルで、ご飯が欲しいことは明確だが、時計を確認するとまだ早い。いつも7時30分すぎにごはんを出しているけれど、いまはまだ6時になったところ。もう少し待ってくれ。

口で言ってももちろん聞き分けてくれるはずはない。
ここからが勝負だ。

枕の下に挟んでいた手を引き抜いて猫の近くへ差し出し、手のひらを上に指をこする。
そうすると猫はハッとした目を輝かせ、弾むようにこちらへやって来て、ちょこんと座る。タイミングを合わせて指先を猫の前に持っていくと、同時にすんすんと軽く指の臭いをかぎ、鼻先を通り過ぎて首を差し出す。

くびかいて

はいよ、はいよ。

ギターを弾いたことはないけれど(正確には体験したことはあるけれど弾けなかった)、アコースティックギターで和音を奏でるように、あるいはウィンドチャイムを撫でるように4本の指を順番に折り曲げて猫の首をかく。
最初の人差し指が触れて中指にさしかかるよりも早く、猫からエンジン音のようなゴロゴロがセッションに加わってくる。よし、かかった。

このまま両手で首をなで回せば猫は喜んでくれるだろうけれど、こちらは軽い尿意を無視した程度には眠い。なんとか猫にも眠ってほしいのだ。

猫の首を奏でる指の動きを少しずつゆっくりにして、止める。
あれ? という感じで催促されたらまた少しかいて、止める。

それを繰り返していくと、猫の方もなんかまあいいかってなってきて、止まった指に催促するのをやめて、足を横に投げ出して寝そべり、そのまま枕にして寝てしまう。よし、猫を鎮めて寝かしつけたぞ。

この瞬間が大変に嬉しい。

猫の望みはシンプルなのだ。快適な寝床とごはんがあれば、それでいい。そしていま、猫の食欲に勝利した。

まぁもともとたいして空腹でもないのだろう。ご飯の時間に上げるのはパウチのウェットご飯を半量、朝と夕にあげているが、夜中はカリカリが置いてある。つまりもともとここに求めていたものは「快適な寝床」か?

横になっていた足を大きく広げ、へそ天になった。枕にしていた手が暑かったのだろう。顎を上にして体勢を変え、おしりが少しわたしの太ももに触れている。どこか触っていたいと、思ってくれているのかもしれない。

猫は元飼い猫なのに、とても怖がりだ。
うちに来てから撫でさせてもらうのに一週間はかかったし、いまだってなぜかベッドの上でしか撫で回させてくれず、廊下やリビングでは近くで寝そべることはあってもひざに乗ってきたりはしない。

仕事部屋に閉じこもっていると、いじらしく呼びに来てくれるのだが、いまいち仕事部屋が怖いらしくめったに入ってこない。
ピンポーンとインターホンが鳴ると、一目散でベッド下に隠れるので、チャイムと来客の関係が分かっているのかと感心した。

それがベッドではこのへそ天だ。
眠っている猫の気配というのはなんとも至福だ。猫の充足感がこちらにも伝わってくる。なんせ、猫の望みはシンプルだから…いま猫は、何に満たされている?

要求はあった。
でもお腹は空いていない。
快適な寝床ではあるが、最適な寝床ではないようだ。だって季節は夏で、古マンションの我が家では、クーラーを入れていてもしっかり暑い。現に猫だって、ちょっぴり触れていた尻を離している。人の近くでは暑いのだ。それでも、そばにいたいというのか。それは、懐いている…信頼してくれているということ?

そうか、猫の望みは、快適な寝床と、おいしいご飯と、信用できる人間がそばにいること、なんだな。
それこそが、猫が満足だと人間も幸せになる秘密というわけか。

わたしは、猫に信用されている。それがとても誇らしい。
よしよし、ちょっと早いけれど、ご飯もあげちゃうぞ。

身体を起こし、あぐらをかく。寝起きがあまりいい方ではないので、目が覚めたあと、しばらく動けないのだ。
ただ、ベッドの上で座ることで、猫はこれからわたしが起きるのだと知る。それはもうすぐご飯だということで、うれしくてうれしくて、肘にあたまをぶつけてくる。

あらあら、おはようございます! 猫もね、そろそろ起きてもいいかなと思ってたんですよ! でね、あれですよね。そろそろあれですよね。ごはん。ごはんですよね。ごはぁん、あれね。ごはぁん、あれでしょ?

この調子でいつでも甘えてくれたら、つかまえやすいのに。
そろそろ爪を切ってあげなくちゃ。

ああ、そうか。それがいやで、ベッドでしか甘えないのか。
ベッドでは、わたしはいつもぼうっとしていて猫を捕まえられないので、安心して甘えられるのか、なるほどね。
逆に言うと、ベッドでぼうっとしていれば、猫は高確率で捕まえられる。

ごはぁん、くださぁい! ごはぁん!

パウチを開けて猫皿に出し、バターナイフでトントンと一口大に刻む。中央にこんもりと山にして、電子レンジで10秒チン。
このときばかりは名犬みたいに、餌場までぴったり脇についてくる。

はいどーぞー!

全神経がご飯に向いている後ろ姿。ここでも抱き上げられるだろうけど、ごはん中に襲うのは猫権侵害に関わるな。

ベッドで横になっていれば、食べ終わった猫が来るだろう。でも食べたばかりで抱きかかえられたら具合悪くなりそうだ。やっぱりもう少し経ってからにしよう。いやまて、その前にトイレ行こっと。

猫の望みはシンプルだ。
快適な寝床とご飯、それに信頼できる人間があればいうことはない。そのためなら、信頼している人間に爪を切られることくらい、ガマンしてもらわなくちゃいけない。

改めまして。
ようこそ、我が家へ。

きみに背負ってもらう憂鬱は、それだけにしてあげる。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

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