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三熊野神社 兜跋毘沙門天像の天衣の形状についてー起源と信仰から読み解くー


1、はじめに

今年6月に岩手県花巻市三熊野神社にある兜跋毘沙門天像を訪れた。
全長4.73mもの圧倒的な存在感に圧倒されつつ、八字にうねる衣の表現が面白いと感じた。そしてなぜあのようなデザイン的な表現が生まれたのか疑問を感じた。作者の趣味であると言えばそれまでだが、私は特徴的な衣の表現に根拠があるのではないかと考えた。そこで兜跋毘沙門天のルーツと三熊野神社における兜跋毘沙門天信仰を調査し、衣の表現について考察を述べる。

2、三熊野神社 兜跋毘沙門天像の基本情報

はじめに基本情報を書いておこうと思う。

中央が兜跋毘沙門天像。両脇に二鬼像を従えている。
https://www.kanko-hanamaki.ne.jp/spot/article.php?p=153より引用

花巻市東和町北成島の三熊野神社の境内にある、毘沙門天を象った仏像。
高さ4.73m。ケヤキ一本彫成仏として日本一の大きさを誇る。
平安中期、朝廷から派遣されてこの地を平定した坂上田村麻呂により完成されたものと伝えられる。地天女の両掌に立ち厳然と1200年をにらみ続けるその雄姿は見るものを圧倒させる。
かつて毘沙門天立像が納められていた毘沙門堂と、それぞれが国指定重要文化財に指定されている。

3、兜跋毘沙門天のルーツ 

(a)インドでの兜跋毘沙門天

兜跋毘沙門天の源流はインドにある。なぜなら毘沙門天の「天」とはインドのバラモン教、ヒンドゥー教で信仰されていた神を仏教が守護神として取り入れたものであるからだ。毘沙門天の信仰は古代インドにおいて北方の守護神とされているほか、ヒンドゥー教では財宝神クベーラとして信仰されていた。毘沙門天の名称はサンスクリット語でヴァイシュラヴァナであり、意訳が多聞天である。多聞天と毘沙門天は同一の尊格だが、独立して信仰される場合、毘沙門天と呼ばれる。北方の守護神である毘沙門天は古代インドにおいて特別扱いされていたようだ。その理由について、宮治明は「暑さの厳しい地域に住むインドの人々にとって、北方は豊かな楽園世界とみなされたのではないか」と述べている。毘沙門天は理想世界の門番として畏敬の念を抱かれていたと考える。

現存最古の毘沙門天像の作例として、ストゥーパの欄楯彫刻が挙げられる。欄楯とは、インド文化圏にみられる聖域を囲うための境界である。ストゥーパの毘沙門天像はうずくまる邪鬼の背に乗っている。ここに兜跋毘沙門天の原型を窺うことができる。なぜ邪鬼の背に乗っているのかについて、宮治明は「インドでは神が降り立つときにはその神の属性を反映するとされているため、毘沙門天の鬼神としての一形態を反映させている。」と述べている。毘沙門天を鬼神として見ると、三熊野神社兜跋毘沙門天像の険しい顔つきにも納得がいく。

毘沙門天信仰はインドで興隆し兜跋毘沙門天の原型を形成したが、グプタ朝以後信仰は衰えた。インドの次に中央アジアで独立した毘沙門信仰がおこった。

 

(b)中国での兜跋毘沙門天

次に中国での兜跋毘沙門天の変遷について述べる。中国新疆・西域南道の中心的なオアシス国家として栄えたホータンにおいて、盛んな毘沙門信仰がおこった。特筆すべきなのが、コータンのラワク遺跡から地中から半身をあらわした女性の地神に両足を支えられた毘沙門天像が発見されていることである。同じように地中から半身を出す地神に両足を支えられた毘沙門天像が敦煌画の中からも見つかっている。このことから日本の兜跋毘沙門天はホータンから直接の影響を受けていると考える。地天女の起源について「大唐西域記」に書かれているコータンの伝説が影響していると考えた。伝説は「コータンの王は後継に恵まれなかったため毘沙門天に祈願したところ、神像の額が割れて赤子が誕生した。その子は乳を飲まなかったため、再度毘沙門天に祈ったところ、地面が膨れて乳のようになり、子供はこれを飲んで成長した。」という内容である。この伝説から想起して地天女に支えられる毘沙門天という形式が成立したのではないかと考えた。また、中国において「兜跋」の言葉は使われておらず、「兜跋」という語は日本で生まれたと推測されている。成立時期に関して、兵庫県圓教寺の旧記である「延照記」に「兜跋」の語が見られることから「兜跋」という言葉は平安時代に日本で作られた語であると推定できる。インドから中国を経て日本に流入された兜跋毘沙門天は様々な形式に変化し、北方守護の業だけではなく地域によって様々な役割を与えられていたようである。日本での毘沙門天信仰は大陸の文化を受容しつつも独自の展開を遂げたということができる。

4、三熊野神社の兜跋毘沙門天像

(a)「兜跋」の語源

先述のように「兜跋」は日本で生まれた名称だとされている。語源に関して詳しいことは分かっておらず今後の研究課題とされているようだが、私が調べた範囲内ではチベット学者であるR.A.スタンの説が有力視されているようだ。その説によると、吐蕃がホータンを支配していた一時期にホータンを指した古代トルコ語「トバット(tubbat)」の音写が「兜跋」であるとされている。

(b)信仰

三熊野神社の兜跋毘沙門天像は蝦夷の守護神として信仰されてきたと考えられている。この考えの根拠は毘沙門天が北方の守護神という性格を持ち合わせていたことに加え、仏像創立のきっかけが坂上田村麻呂による蝦夷の平定後に日本国北方鎮護の守護霊として祀るためであるとされていることにある。この考えをもとに兜跋毘沙門天像を見ると、威圧感のある体躯に蝦夷を支配した朝廷や坂上田村麻呂の権力を窺い知ることができる。しかし、私は疫病や災害から人々を守る役割もあったのではないかと考えた。根拠として、平安時代に疫病や災害が流行したことが挙げられる。八六九年に三陸沖で起きたマグニチュード八.三の貞観地震を皮切りに隕石の落下や疫病の流行、富士山の噴火といった不幸が相次いだ。このような時勢において、観念的脅威からの救済を兜跋毘沙門天に願ったと仮定しても良いのではないかと考えた。

(c)天衣

私が注目した形状は八字を成して上方へ反転する衣の形状である。この形状は中国の美術理論である「気韻生動」に裏付けることができるのではないかと考えた。気韻生動とは芸術作品に風格や気品、生命感があるという意味である。つまり、作品に目に見えない「気」があるということである。中国において「気」は万物の根源をなす原子のようなもので目に見えないとされていた。七世紀の中国美術では不可視の気を表現する手法として人物の着衣や天衣に異常な動きを与え、衣の端を尖らせ、「気」の発散を暗示する手法があったという。私は兜跋毘沙門天の霊験が兜跋毘沙門天像足元の八字を成して上方へ反転する天衣の奇妙な動きにも反映されているのではないかと考えた。

5、まとめ

 今回の調査では兜跋毘沙門天像のルーツについて調査していく過程で、八字にうねる衣の表現は中国美術理論に影響を受けたものであるという仮説を立てることができたが、想像に過ぎず、はっきりとした根拠がないため断言することはできない。今後の学習では仏像の製造技術や中国の美術理論の日本での変遷を調査し、仮説を深めたい。

6、参考文献

 「毘沙門天像の誕生 シルクロードの東西文化交流」 吉川弘文館出版 田辺勝美著1999年12月1日発行 p.2-p.22参照

「7-9世紀の美術 伝来と開花」 岩波書店出版 井上正著1991年12月13日発行 p.4 p.67-p.78参照

「特別展 毘沙門天-北方鎮護のカミ-」 奈良国立博物館、朝日新聞社、NHK奈良放送局、NHKプラネット近畿、文化庁、独立行政法人日本芸術文化振興会出版 2020年2月4日発行 p.6-p.24 p.144-p.147 p.165参照

「新詳日本史」 浜島書店出版 浜島書店編集部著 1991年11月1日発行 p.75 p.108参照

「四川地域の毘沙門天像-形式に見る四川的特徴について-」大島幸代著

 https://mikumanojinja.com/bisyamondou/ 三熊野神社毘沙門天堂 

https://www.city.hanamaki.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/013/733/dayori64.pdf 花巻市博物館だより 2021年8月No.64 p.7参照 

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