アフリカに住んでた
今まで「アフリカに...」というと色々な反応を受けて来た。
小学生の時、ガボンから引っ越して初めて日本で住み始めた時によく言われたのは「象に乗って学校に行った?」だった。
もちろん象に乗って行ってなんかなかったので「ううん、車で」というと大体みんな興味をなくした。
そんな小学校も卒業間近。お父さんがルワンダに転勤になったからみんなに同じ中学校に行けなくなったと伝えたときは4割の人がアフリカをアメリカと覚え間違えて、卒アルに『アメリカに行っても元気でね!』と何人かが書いてくれた。
アフリカにあまり興味がなかった私はその度にアフリカだよと直すのも嫌だった。
中学校で長期休みに帰って来た時には、部活中に先輩に呼び出されて「黒人ばっかりってマジ?」と聞かれた。なんでそんなこと聞くんだろう、当たり前じゃんと私は思ったが私が住んでいた地域では外国の人を見かけるのもすごく珍しかったため先輩たちは今まで黒人の方に会ったことがないのかとちょっとびっくりした。
高校ではあまりアフリカの話はしなかった。
みんな「アフリカ〜へ〜!すごいね!」程度だったし、私も変な質問をされるよりはいいか。と思って放置していた。ガボンもルワンダも知っている人はいなかったし。
大学に入ってからは頻繁に「アフリカ!話聞かせて!!」とは言われたがそれは挨拶程度でちゃんと話したのは1人か2人ぐらいだった。
ここまでで私の中でガボンとルワンダでの生活はただの「一部」にすぎなくて語る必要もないと思っていたが、今回大学でノンフィクションの授業でルワンダでの生活を(英語で)まとめることになったのでその前によりcomfortable な日本語で書きたくなったので覚書き程度に書いていこうと思う。
3歳から6歳まで住んでいたガボンは赤道直下の国でとてもとても暑かった。
標高が高くて比較的過ごしやすかったルワンダと比べるとガボンはザ・アフリカだった。リーブルビルという首都に住んでいて、ちゃんと記憶にあるのは自宅と自宅があった敷地、学校、友達、友達の家とビーチおよびたまに行ったリゾート地のようなホテルぐらい。
リーブルビルは割と発展していて友達は高いマンションに住んでいた記憶がある。
学校の行き帰りはお母さんの車だったが暑すぎて窓を開けてもむーんとする熱気を感じるだけだった。
ビーチも外国人が行けるところと行けない(危ない)所があり外国人の子どもは特に拐われて食べられてしまうと聞いていた。海水はものすごく汚かったが私はお父さんとお母さんとビーチ沿いを歩くのが好きだった。最後にビーチ沿いを歩いた時に頼み込んで買ってもらったココナッツ丸ごとのココナッツウォーターは温くてものすごく不味かったので一口飲んで両親にあげた。
リゾート地のホテルは二段ベットが2つある暗い部屋でどこもかしこも砂でザラザラだった。シーツが全部アニマル柄(ゼブラ柄、ヒョウ柄、キリン柄)で私は怖くてちゃんと寝られた記憶がない。そのリゾート地では水が濁りすぎていてお友達ががクラゲを踏んだり、釣りをしていた彼女のお父さんの釣り糸?に引っかかったりしていた。
中学校の時に引っ越したルワンダはこれとはまるで違ったアフリカ体験だった。
私のアフリカでの生活の感想は自然が綺麗だった、懐かしい、と不便だ。
一言にして!と言われたら一番最初に不便!!がくると思う。
私にとってアフリカは「助ける場所」とか「学ぶ場所」とか「経験する場所」とか「支援する場所」ではなく生活する場所だった。
2週間や数ヶ月間アフリカにボランティアなどで行った人の話などを聞いたり見たりすることがあるがそれらを聞くとすごい温度差を感じる。
ボランティアをしに行く、アフリカと生活するアフリカは見えるものも感じるものも全く違う。ボランティアなどで偉大な貢献をしている人たちやそれを綴ったものはたくさんあるので私はのんびりリアルなルワンダでの生活を書き残してみたいと思う。いつかあのときは赤ん坊だった妹に聞かれたときのためにも。