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私のlife、買い物はfresco

令和3年3月29日の日記
新聞で私が好きなのは、まず1面のコラム。「朝日新聞」における「天声人語」のポジションにある各紙のコラムは知の宝箱です。主要紙(読売朝日毎日産経日経)ほか、北は北海道から南は沖縄までのネットで無料で見られるやつは全部毎日読んでます。(ただ、好きとはいえ、しんどいのはしんどいので、土日祝はお休みさせてもろてます)

普段滅多にイヤだな〜と思うことはないのですが、今日の産経新聞のコラム「産経抄」は好きではありませんでした。なんでも携帯電話の着信音が鳴ったから出てみると、知人が「いやぁ、本当によかった」と喜んでいるから何かといえば「東海大菅生がサヨナラ勝ちしたから、あの校歌を聴かなくて済んだんだ!」とのこと。ここから先、いったいどこの校歌でどうしてこの人はそんなに校歌が聴かれないことを喜んでいるのか、については気になる方は調べていただければと思うのですが、知の宝箱にどうしてこんなことを書いてしまうのだろうかと、すごく好きじゃない気持ちになりました。主張はわからないでもありませんけれど、そこへ話を持っていくやり方として、「いやぁ、本当に良かった」と喜ぶ(「高揚した声が飛び込んできた」とある)知人のくだりは絶対に要らないと思います。

と、こういう気持ちになることは稀なことです。毎日毎日気になったコラムは取ってあります。こういうとき、「毎日新聞」ってまぎらわしいから好きじゃないんです。毎日毎日気になったコラムなんて書くと毎日新聞のコラムの話を書いているみたいになっちゃいますから。昔、ラジオのDJが相撲の話をしていて、確か稀勢の里と勢の一番の話をしていたと思うのですが、「稀勢の里の勢いがすごい」みたいなことを言っていて、いやいや、そこはせめて「勢い」を使うのはやめましょうよ、と思ったのですが、そもそも「勢」っていう四股名が全てをややこしくさせているんですよね。

あとは今日、気になったコラムは読売新聞の「編集手帳」。通訳者の長井鞠子さんの著書『伝える極意』から翻訳の難しさについて引用していました。日常にありふれた単語は通訳者を苦しめるそうで、例えばlifeを日本語にする場合、文脈によって命、生活、人生の三つを使い分ける必要があると書いていました。興味深く読んだのですが、逆にその三つをlifeにまとめてる英語の感覚っていいな、って思いました。生活がlifeで人生がlifeで命がlifeなんだから、つまり命=生活なんですよね。生活っていったら私たちなんかでいいますと、例えば観劇したり飲みにいったり本を読んだり買い物したり好きな人に会いにいったり、こういうのは全部、生活の一部ではありませんか。ということは、それらがすべてlifeであり、それらすべてが人生を形作っており、命と等しく大切なものであるいうことになりますから、そうなってきますと、不要不急っていったい何なのでしょうかね。みんながみんな、それぞれにlifeがあり、どのlifeも分け隔てなく尊いのでありますということに気づかせてくれたりするから、やっぱり新聞1面のコラムが好きなのです。

ところでさっき、「スエズ運河」の「スエズ」を「よしず」のイントネーションで読んだ人がいて苗字みたいでした。末津さん、っているのかしら。こういうのがラジオから聞こえてきたりしたら、ますます、ラジオが好きになるのですが、聞く人によっては「まちがいだ!」と気分を害されるのでしょうか。私はどうせなら想像力を刺激してくれたことにありがとう!と感謝したいものです。校歌を聞かずに済んでよかった!とか一面に書いてしまわないような生き方、したいな。それが私のlife。お買い物はfresco。

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