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スマートすぎる社長

 大雨の影響で東海道新幹線が動かなくなり、昨晩は急遽東京に泊まることになった。無論、俺がそんな臨機応変な対処をできるはずもなく、日頃よりお世話になっているH社長のおかげなのであるが、いま振り返ってみても、その水際対策の完璧さに惚れてしまう。

 昼の二時の段階ではまだ愛知県の豊橋から三河安城間で運転の取り止めが出ている程度だったのだが、もうこの時点で「いまのうちにホテルを予約しておいたほうがいい」との判断でH社長の泊まる銀座のビジネスホテルを即座に予約してくださった。少し対応が遅れていたら俺も宿無しだったかもしれない。宿無しだったらもう世良公則とツイストを踊るしかないがその世良公則と知り合いでさえ無い俺は途方に暮れるしかない。大沢誉志幸である。

 帰れなくなったからには、せっかくなら銀座へお連れしましょうなどという甘い言葉に誘われ、俺はH社長の背中を追いかけ銀座を歩く。「うちとこは銀座っていっても全然銀座の雰囲気とは違うバーなんですよ」と笑うお姉さんが美しい地下のバーに入る。三杯ほど飲むと雨宿りの団体客が見え、カウンターしかない狭い店内はあっという間に満席となり、俺たちは店を出る。H社長はいつの間にか次の店の予約と勘定を終えている。スマートすぎる。

 銀座らしくない店のあとは直球銀座の高級店へ。マッカランとかいうアホみたいに美味い酒をご馳走になる。巨人の新外国人選手ならきっと使い物にならなさそうなマッカランであるが酒としては有力すぎた。クロマティを越える逸材である。何杯かご馳走になり、ここでも俺はお会計がいくらだったかを知らずに店を出る。

 銀座へ来る前に青山の居酒屋でも飲んでおったのだが、銀座のビジネスホテルにたどり着くまでに俺が使った金はホテルの近くのファミリーマートで買ったおつまみ含む酒代820円のみである。

 翌日、というのはつまり今日なんだが、チェックアウトの11時にフロントで待ち合わせ、銀座通りをH社長の背中を追いかけ歩く。商社なのか瀟酒なのか、あるいは瀟酒な商社なのか、いや、どちらかといえばこの銀座通り沿いに店を構えているのは全て勝者なのではないか。オニツカタイガーはインバウンドが爆買いしまくるらしい。

 H社長が全力でおすすめするとんかつ屋さんは開店まもない11時5分の時点で既に満席で三十分ほど待ち入店する。上ロースかつ定食とあじフライ。正直なところ、ご飯を大盛りにしたかったのだがそんなことをとてもじゃないが申告はできない。しかし大盛りになどする必要はなかった。とんかつが美味すぎた。肉汁たっぷりのかつを粗めの塩でいただくと、あの肉汁のやつに塩が溶けて背徳の味がする。あまりに美味すぎるとご飯のおかずにするという行為が罪深く感じられる。ご飯は並みでも多いくらいだった。ご馳走になった身分で言うことではないが、あれが千七百円は安すぎる。帰る頃には二時間待ちレベルの行列ができていた。

 昨日の夕方、新宿のみどりの窓口で今日の13時12分発のぞみの指定席を購入していたのだが、東京駅へ到着すると今朝からのダイヤの乱れにより、自由席確保のために並ぶ人が長蛇の列をなしていた。幸い俺たちの乗るのぞみは通常運行とのこと。12時台発車までの便は運転の取り止めも出ていたらしいので、この時間の予約をしておいたのも、実によくできた水際対策であり、改めてH社長の危機管理能力の高さに唸る。「たまたまですよ」とおっしゃるのだが、そのたまたまを引き寄せるには経験がものをいうのにちがいない。旅慣れた大人は余裕がある。懐にも余裕があるし、H社長の全貌は計り知れない。一朝一夕ではこんな風にはなれない。長年スマートに生き続けておられるんだろう。

 新幹線に乗車する前には八重洲北口の大丸地下でお買い物。崎陽軒でシュウマイを買い、三代目たいめいけんでハンバーグ、浅草満願堂の芋きんに森幸四郎のカステラを購入。これら全て、1ミリも迷うことなく、スタスタスタスタ歩いていくその澱みのなさ、各店での注文の素早さ、全てが疾風の如くであり、全ての店舗で俺の家族へのお土産も買ってくださった。「突然東京に足止めさせてしまったのでご家族の皆さんへのお詫びの印です」などとおっしゃられたものだから、この人は疾風ではなく、昨日の大雨の原因となった台風だったのかもしれないが、いやいや、あのいびつな台風にH社長のスマートさは欠片もなかった。

 そして今、ほぼ時間通りに出発したのぞみの車内で窓側の席を俺に譲ったH社長は両手を組み、姿勢を崩さず、寝息を立てずに眠っておられる。こんなにも人はスマートに徹することができるものなのか。簡単に倣うことなどできないことだが、スマートとは何か、を知らなければ倣おうとさえできない。これも経験である。いつか俺もスマートにたまたまを引き寄せたい。

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