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読書の記録 グレゴリー・ケズナジャット『鴨川ランナー』

 第二回京都文学賞受賞作『鴨川ランナー』と、もう一作『異言』を収録しています。

 作者のグレゴリー・ケズナジャットさんと思われる主人公が母国で日本語に魅せられ、学生時代に訪れた京都での体験が忘れられず、やがて彼は英語教師として南丹市八木町にやってきます。

 主人公が二人称の「きみ」と呼ばれているのが、なんとも不思議な感じなんですが、そうやって自分を客観視しているのでしょうか。「きみ」は、いつまで経っても「きみ」としてではなく「外国からやってきたネイティブの先生」というあやふやな存在として扱われ、日本語ができるのに日本語交じりの英語で対応されることにストレスを感じます。外国人を相手にすると、きっと私もそうするだろうと恥ずかしくなる。かといって知った風に陽気に英語で接するのも何だか恥ずかしいというコチラの気持ちもわかってほしい。

"今まで読んできた教科書の中に、この英語交じりの日本語への対策はどこにも載っていなかった"

"だがきみのような存在を進んで自分の生活に取り入れようとする者はいない。きみは常に一個人ではなく、英語なり海外なり漠然とした概念の代表とされてしまう"

こんな風に、どこまでも「他者」「異端」として扱われ、個性は埋没していく京都生活に倦んでいく「きみ」は、しかし、それでも京都での暮らしを続けます。

「きみ」は「外国人」というレッテルを貼られ、「中」から弾かれてしまうんですが、こうやって弾かれるのって外国人に限ったことではありませんよね。何かが欠けていると判断されてコミュニティからの排除を受けた経験が無い人っているのかしら。いや、いるからこそ、ああやって平気で排除するのだろう。自分はどうだろうか。「きみ」に感情移入することは簡単ですが、「きみ」を「何か違う人」と大きな枠に嵌め込んで他者扱いする側に居心地よく座っていることだって私にはあるのです。

『異言』は、この本の出版のために書き下ろされた小説らしい。福井県の英会話教室で講師をしていたアメリカ人が失職して住む家にも困ることとなり、英会話教室で教えていた女性のもとへ転がり込みます。自分は日本語で話をしたいのに女性は丁寧な英語でコミュニケーションをとろうとします。田舎は特にそうかもしれんけど、外国人は「外国人」を演じさせられるところがありますよね。私たち日本人は無意識にそれを強要しているところがあると思う。母語と外国語の狭間で生きる人の抱えるジレンマ。2作とも面白い!

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