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AIはハピネスでなければ

 AIの話題が新聞に掲載されていない日がない時代に新聞を読むということに少しばかり矛盾を感じないではないが、これはきっとデータで音楽を聴く時代になってもレコードで聴き続ける人たちの感覚と似たようなものかもしれない。

 つい先日、ビートルズの楽曲をAIが演奏するとか、そんな記事の見出しだけ読み、私は歌手のAIがビートルズのカバーをするくらいのニュースがどうしてこんなに誌面を割いているのかと思った。AI全盛のいま、被害とは言わないまでもAIさんは迷惑被っているんじゃないか。「人工知能じゃないほうのAIです」「あいって読みます」などと説明するのは面倒くさいだろう。

 先日、日経新聞夕刊の寺尾紗穂さんのコラムに面白いことが書いてあったので引用しちゃう。

 2000年代の原発では、若い人がパソコンで現場を管理しはじめ、熟練の技術者たちの意見との衝突が目立ったという。「パソコン上で出す数値と実際の研磨とは、全然違うんです。肌で感じて目で見て感じるわけです(中略)。人が機械でボルトあけたものは、コンピュータであけたのよりピタッといくんです」

 これはAI(人工知能の方)の話ではないが、AIに頼りきってしまったときの末路は似たようなものではないかと思う。現場の経験に裏打ちされた答えはコンピュータで理論的に導き出された答えとずれるのだ。そのずれは微々たるものかもしれないが、ずっとずれ続けていけば、やがてワニの口のようにどんどん開いていってしまう。国家予算の一般会計の歳出と税収の差のようなものである。「些細なこと」を放置したがためにどうにも立ち行かなくなった会社や業界、恋愛関係は星の数ほどあるだろう。AIはこの微小なずれを補正できるのだろうか。

 作家の松下隆一さんは京都新聞の「季節のエッセー」にこんなことを書いている。引用しちゃう。

 正確な答えを早く導き出して、滞りなく効率よく予定通りに行う-それもいいだろうが、不完全な人間が躓き、もがきながら得た知恵を、不完全な人間同士が共有して支え合うことも大事ではないかと、近頃よく考えてしまうのである。

 別に汗水垂らせばいいというものではないし、効率よく仕事を終わらせることができるのであれば、それはそれで結構なことだと思うし、AIに頼ってはいけないこともなかろう。無駄に時間を掛けたところで一人よがりに終わってしまっている仕事もある。しかし、空気や雰囲気、感覚など境目があやふやなものによって、いい方向に向かう「流れ」というものも確かに存在する。もちろん逆に余計な忖度によって悪い方へ向かってしまう「流れ」もあるが、後者を排除したいがためにAIを活用し、結果、前者まで削がれてしまっては、せっかくの先端技術が台無しになってしまう。AIは使い方次第でハピネスにもアンハピネスにもなる。やっぱりAIはハピネスでなければならない。

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#AI

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