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承認欲求のど阿呆!

 今日は京橋で句会がある。毎月第三土曜日の昼に開催される句会に参加するようになってからこの四月でちょうど一年。句会メンバーの先輩諸氏のあたたかさのおかげで続けることができている。中学生の頃の野球部の上下関係のようであったならすぐにやめていただろう。同じ理由でいまも野球をやめてしまった子はいるのかもしれない。新人が長く続けることができる環境がなければせっかくの才能も花開くことはできないのだ。私に俳句の才能があるかは別として。

続けたおかげで褒めてもらうことも増えたんやで。

●清明や記憶にないといつておけ

 清明は二十四節気の一つ。
 木々の若葉が一斉に芽吹き、花が溢れんばかりに咲き、万物が清く明るく感じられる季節です。実際のこの季節は花粉や黄砂のせいで必ずしも清く明るくはないのですが、新年度がスタートする時期とも重なり、どことなく前向きになれる季節でもあります。そんな季節に抗うごとく政界では不潔極まりない裏金の話題ばかりが取り沙汰され、悪い奴らは記憶にないと言い逃れする。その開き直り方に腹が立ちます。

● すごもり虫戸開きまた戸閉めにけり

 清明の前の前?は「啓蟄」。冬の間すごもりしていた虫たちが巣から出てくる頃です。二十四節気をさらに三つに分けた七十二候では啓蟄の初候が「蟄虫啓戸(すごもりむしとをひらく)」。まあ、「啓蟄」をちょっと詳しく書いたようなもんですが、「戸を開く」という比喩がいいじゃないですか。今年はその頃、三寒四温がトゥーマッチやったので、戸を開いた虫たちもあわてて戸を閉めちゃったんじゃないか、という句です。17文字しか使えない俳句において11文字もある「蟄虫啓戸」は使いにくいのですが、なかなかうまく使えたのではないかと思います。

 俳句をはじめたことで季節の移ろいに敏感になりました。当たり前のことながら季節というのは、境界線がはっきりしているものではなく、少しずつ少しずつ移ろうものです。刻一刻変化しているものを便宜上、「ここからここまでが春」と勝手に人が決めているだけ。そんな人の身勝手さなんぞ、天地万物は鼻で笑っているにちがいない。自然の摂理を理解しながらも、季節に区切りをつけ、「私たち人間は所詮こんな風にしか生きてはいけませんねん」と俳句を作る。この行いにより、我々を取り巻く自然環境への畏怖が芽生え、謙虚に生きることができるのです。
 
 こんなことをスマートフォンのメモ帳に打ち込んでいるくらいなら、車窓に流れる景色でも眺めておけよ、と自分でも思うのですが、所詮こんな風にしか生きていけませんねん。謙虚というより傲慢な気がする。スマートフォンの馬鹿野郎!書きたいという欲望のクズ野郎!承認欲求のど阿呆!

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