見出し画像

東京日記8 まだ武蔵野線

景色を眺めることもできず、スマートフォンは取り出せない。こんな時は読書に限る。いつもなら電車のなかでは読書をしている。むしろ、電車のなかでは読書をするものだと思っていたくらいなのだが、舞浜から西船橋を経て武蔵浦和へ向かう間に私のルーティンは忘れ去られていた。鞄のなかには数冊の本を入れているというのに。読書好きの悪い癖で、どうやってもそんなに読めないであろう分量の本を旅のお供に連れていくのだが、結果、旅先では読書に勝る楽しみが現れてしまい、その数冊はついぞ鞄の外に出されないままに終わるのだ。それでも読書に勝る楽しみが現れない旅よりはいいのだと思う。
 買ったはいいが、まだ1ページも読めていない『文藝』秋号は分厚くて重いのにどうしてこんなものを持ってきたのだろうかと思うが、持っていきたくなるのだから仕方がない。どうせ読まないとわかっているのに持っていってしまう本に限って分厚くて重い。京都から東京へ持っていき、1ページも読まずに京都へ持って帰るという、この徒労は犯罪者への刑罰にさえなり得るのではないかと思うが、それを好んでやってしまう私のような人間もいる。いつか読むタイミングが来るからそのタイミングが訪れるまではなるべくいつでも読める場所に置いておきたいと思う。
 結局『文藝』秋号は鞄のなかから取り出さず、代わりに岩波文庫の高浜虚子『俳句への道』を読む。コンパクトな文庫本であるから電車のなかでも読みやすい。旅に連れていくのは本来、こういう本であるべきだ。
 ずいぶん昔に書かれたものの割には読みやすく、俳句には季語が必ず必要であり、最近は季語の無い俳句を作る連中がいるけれども、それはもはや俳句ではないから、どうぞ他所でやってくださいという強い意志を感じ取った。俳句は何より写実が大切であり、写実を繰り返すうち、その写実に自身の内面が投影されるとか、そのようなことが書いてあった。

続く
※続かないかもしれない

↑前回がこちら

↑まだ東京駅にいた初回はこちら

#note日記 #日記 #コラム #エッセイ
#東京 #東京日記 #蠱惑暇 #武蔵野線
#俳句への道 #高浜虚子

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?