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短編小説『弓削化』

 弓削が西村を捕まえた。弓削に捕まったが最後、仕事は諦めなければならないのだが、仕事は減らないから結果、残業をする羽目になる。ところが、これは職務上の怠慢に起因する残業と見做されるため残業代は支払われない。
 ツラいのはそのことではなく、弓削の話が面白くないことだ。世の中に対する怒りだったり、最近観た映画の話だったり、話題は多岐にわたるのだが、いかんせん、どの話も芯を突いていないというのか、上滑りするというのか、そんな話で私たちが本当に喜ぶと思っているんですか、という話を延々聞かされるのだ。   
 断ればいいと思うかもしれない。しかし、弓削は上司でもあるから、私たちにNoを突きつける選択肢はない。そうした私たちの立場をわかってくれればいいのだが、弓削ときたら、むしろ私たちが彼の面白い話を「待っている」とさえ思っている節があり、彼にとって私たちに豊富な話題を提供することは、最大の善意にほかならない。
 他人のことをバカにしていなければ、できることではない。弓削にとって私たちは立場が下の人間だから、文化的にも劣っていると捉えているのだろう。人の振り見て我が振り直せというが、弓削のあの振る舞いを毎日目の当たりにし、自分もどこかのコミュニティで弓削化していないか、私は細心の注意を払っている。
 残業することになった西村を哀れに思った私は、定時に仕事を切り上げたあともオフィスに残り、西村の仕事の進捗を見守ることにした。新人が残業続きなのに上司が先に帰るようでは話にならない。私は西村にお茶を差し出し、根を詰め過ぎないよう、今朝見た夢の話や、飼っている猫の話をしてやると、楽しそうに頷いていた。気分がいい。職場というのは、常にこうでなければと思う。僕のことはいいので先に帰ってくださいね、と西村が殊勝なことを言うものだから、あまり無理をしたらだめだぞと西村に伝え、私は午後9時に職場を出た。

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