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涌井様、おんお世話にならさせていただいておりまさせていただいておりまします。

少し前に何かのテレビ番組で辛坊治郎さんが若手のアナウンサーに対して「させていただきます」なんていう言葉を使うんじゃないと説教しておりました。「正しい日本語」って難しいなと思ったわけなんですが、私もその若手アナウンサーのように人生の先輩に日本語の使い方について指摘されたことが何度もあります。

もうコロナ前にお亡くなりになった佐藤弘樹さんという英語講師でラジオパーソナリティの方は、とても言葉について厳しい方で「七日」は頑なに「なぬか」と読み、「最近の若い子はみんな、なのかって読むけど正しくは、なぬかだからね」などとおっしゃっていましたが、正直なところ、私は内心「はぁ?」ってなもんでして、そんなことを言い出したら「秋葉原」は「あきばはら」だし「新しい」は「あらたしい」やないかい!などと、とてもじゃないけどご本人にはツッコめなかったため、心の中で呪詛しておりました。

その頃から、いや、もっと前から私は日本語について、興味があり、「勉強している」というほど耽るわけではなく、ただただ「興味がある」という程度なので甚だ恥ずかしい限りなんですが、あ、だいたい私が今やってることなんぞ、全てその「興味がある」の範疇にあるもので、というのは、それ以上踏み込んでしまっていることを他人に知らしめてしまうと変に「責任」が出てくるといいますか、職場の責任逃れするおっさんたちのことは忌み嫌うくせに何をひよってやがるこのチキン野郎!などと罵倒されたら私は逆に興奮してしまうかもしれないけれども、それなら「逆に」もっと踏み込んだほうがより「興奮」の距離が近くなるんじゃないですか?っていう、この文章を書いている段階で既に私は、若干、男として興奮してしまっているという、なんとも側からみれば、ただの「変態」といえる、これも一種の「性癖」を持ち合わせておるわけですが、あ、そうそう、何が言いたいか、といえば、最近気づいたことがありまして、いや、気づいたというのか、再確認したというべきなのか、いや、「再確認」なんて言葉は所詮、「昔から知ってたことを最近実感したわ」なんていう、「知らんかったわけではないんやけど」っていうエクスキューズを自らに与えるしょうもない言葉ですから、ここはそんな甘えは無しにして「気づいた」と言っておくべきで、では、何に気づいたかといえば、こういう、日本語の正しさが云々ということを宣う人というのは、いつでもいつの時も、「上の人」なのだということでして。

現状、サンプルが少なくて申し訳ないんですが、辛坊さんと若手アナウンサーにしろ、佐藤弘樹さんと私にしろ、言葉遣いの間違いを指摘するのは「上の人」で指摘されるのは「下の人」なんですよね。

そうなると、おそらく、いや、わかりませんけど、と、また自分の発言に保険をかける私を殴ってやりたいですが、そうなると、辛抱さんにしろ佐藤さんにしろ、若い頃に彼らのさらに「上の人」から「おのれらの言葉遣い、それ、なんとかならんのかえ」と指摘されたことがあったのではないか、と思うわけでして、そこで彼らがどういう反応を起こしたのか、そこが私は気になるんですよね。もしくは、そこを指摘されることもなく、神童と呼ばれた(知らんけど)幼少期より、言葉遣いは年寄りがめくじらを立てることはなく、模範的少年であった可能性も否定はできない。

なんにせよ、日本語の「正しさ」というものについては、「下の人」が「上の人」を糾弾する場面というのを私は見たことがない。「近頃の若いもんは言葉がなっとらん!」と怒るのは当然、「上の人」。「最近おっさんおばはんらってなんか言葉遣いおかしない?」という「下の人」がいたとしてもその主張は罷り通らない。

何を当たり前のことを言うとんねん、と言われれば確かに私、さっきから当たり前のことしか書いていませんが、これって当たり前ですけど、意外と重要なことな気がしましてね。

例えば「させていただきます」っていうのが、私は正直、何がどう問題なのか、いまいち、わかっていないんですけど、これが「おかしい」というのは「上の人」ばかりじゃないですか。年配の人とか先輩とかに限らず、飲食店やコンビニの店員に対する客とか。「あそこの店のスタッフが『させていただきます』とか『◯◯になります』とか言いよんねん、アホちゃうか」なんてことをおっしゃるわけなんですけど、しかし、それって「上の人」が、どこまでも「上の人」であるが故に「下の人」が工夫に工夫を重ねて作り上げた「防衛策」なんですよね。

「敬意逓減の法則」というのがあり、「敬意」というのは、それが「当たり前」になったら、そこに含まれる「敬意」が相対的に減少してしまうんですよね。その減少分を補うために余計な尊敬語謙譲語丁寧語などを付け足した成れの果てが「させていただきます」であり、それは「上の人」たるあなたたちの尊大な態度が生み出したものなのかもしれないと思うわけです。そこで「おまえらの使ってる『させていただきます』って何やねん、そんな日本語ないわバカたれ」と一蹴してしまうのは、あまりにもセルフィッシュといいますか、もうちょっと「下の人」の苦渋の滲む「させていただく」が生み出されるまでのハラスメントの歴史といいますか、そういうのをもう少し理解すれば「おかしい」と一蹴するということは無いのではないかと考える次第でして、私、この「させていただきます」問題は、この縦社会が厳しい日本において、ここで終わるわけが無いと睨んでおり、今後、どのように敬意の逓減を補っていくのか、注目しておる次第です。

おそらく近い将来、「させていただかさせていただきます」くらいの用法は定着していくのではないでしょうか。

涌井様、おんお世話にならさせていただいておりまさせていただいておりまします。
さのたびの御収録の件に関させましては、本来無いことであるはずのものを通していただいた、これを「ありがとうございます」などという言葉に片づけてしまってはならないという程に、かけがえのない、大変、貴貴重重な経験をさせていただかさせていただかさせておんいただきました。このおん御恩に報いさせていただかさせていただくためにも、何何卒卒、このおん御支配からのおんご卒業するおん御崎豊のおんマイリトルガールではありませんが、涌井様のおん懐をあたためていただかさせていただくためにも、私、身を粉にして働かさせていただかさせていただく所存でございまする。どうか、銅化、銀化、金化、溶接しくお願いいたします。

と、このようなまどろっこしい文面が現実にならないためにも、私は思う、「上の人」が寛容になるべきなのだ。「上の人」が「させていただきます」を許容しないその保守的姿勢がゆえに「させていただきます」が生まれるのだ。川の流れをお堰き止めになさられなさられなさられないほうが結果としてごく自然に日本語が流れていくのではないか、なんていうことを私なんかは考えるわけでございます。

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