大国に翻弄されるウクライナ

ロシアに取り込まれ行くウクライナ東部

ピョートル大帝の100年ほど前、イヴァン雷帝という有名な王様がいた。
この人からツァーリを名乗りはじめ、モスクワ大公国は帝国化していき、ピョートル大帝の時代にロシア帝国となる。
その後、エカチェリーナ二世という名君が登場し、西ヨーロッパの列強諸国と対等なまでに成長する。

このようにロシアが成長していく過程で、ロシア皇帝は、ロシアを大ロシア、ウクライナを小ロシアと見做していくようになる。
1774年、クリミア半島にクリミア・ハン国という国家が存在しており、この国の実質的な支配者はオスマン帝国だったんだが、ロシア帝国がこれを奪取して併合している。

既に地図上にウクライナの地名はない

ロシア皇帝エカチェリーナ二世は、ウクライナの自治組織を完全に解体し、ロシアの中に完全に取り込んだ。それまでは、自治組織に政治を任せ、それを支配する形だったのが、ロシアの行政区の一つとして知事を派遣して、完全に取り込んでしまったわけだ。独自の軍隊であったコサック兵も完全にロシア軍の中に組み込まれることとなった。
ちなみに、その行政区の正式名称としてマロロシア(小ロシア)が採用されている。特に、港町であるオデッサは、中央の直轄地として治められていた。

ポーランドが治めていたウクライナ西部は?

ポーランドはどんどん力を失って縮小していた。その代わり、プロイセンやオーストリアという国が大きくなっている。その結果、ウクライナ西部はオーストリアの支配下に収まっていた。
ちなみに、ウクライナにおけるロシアとオーストリアの支配する土地の割合は、ロシアが80%、オーストリアが20%という具合で、ロシアの影響を大きく受けることになる。
このときに14世紀からずっと続いていたポーランドからのウクライナ支配は一旦終了することとなる。

ここから、1700年代後半から第一次世界大戦の120年ぐらいの間、この体制が続いていくこととなる。

このようにウクライナが大国に翻弄されがちなのは、広い平原が続いていて、東西両面から攻め込みやすいという地形と、豊かな穀倉地帯として有名だった為だ。

ナポレオンの影響

1700年代後半から1800年前半にかけて、フランス革命とナポレオンの時代が到来する。
クリミア・ハン国やウクライナを合併して強大化したロシアだが、フランス革命を起こしたフランスや、産業革命を起こしたイギリス、頑張って追いつこうとしているプロイセン、それらに対して後進国として後塵を拝するような動きになってくる。
当時の専制君主国家にとって、フランス革命は脅威であり、こぞって攻め滅ぼそうとするんだが、それに対抗する形で、ナポレオン率いるフランス国民軍が奮起して、次々と勝利していた。
その当時までのヨーロッパの戦争というのは、貴族同士の戦いで、金で雇われた傭兵が主戦力となって戦っていた為、ある程度勝負が見えたら、矛を収めるのが普通だった。
ところが、人権や国民意識に目覚めたフランス人たちは、自分たちの国を守るという愛国精神を支えとして戦争に身を投じる為、死に物狂いの戦も厭わなくなってくる。だから、強かった。

話は変わって、ナポレオン軍を叩く為にロシアも参加していたわけだが、ロシア兵士の中に、ロシアの生活が西ヨーロッパに比べて余りにも遅れているという気付きによる不平不満が生じてくる。
その当時のロシアは農奴制といって、土地を移動することのできない農民たちが重税を課せられて極貧状態で生きているという状態だった。
こういう世界では、なかなか産業が発展しない。
近代化しなければ、他国には勝てないのではないかという危機感が、ロシアの中に芽生えてくる。

近代化するにあたって大事なのは、ロシア人とは何かという認識。
国の為に一丸となって目的を達成する為に動くということが、効率的な成長には欠かせない。
ところが、ロシアにはウクライナやクリミア・ハンといった異なる民族もたくさんいて、それが難しい。

クリミア戦争と日露戦争での敗北

ロシアは1853年からクリミア戦争を始める。
ロシアは凍らない港を求め、伝統的に南下政策を取っており、オスマン帝国と戦いを始めることになる。しかし、多民族国家であるオスマン帝国が崩壊すると厄介なことになる為、イギリスやフランスはこれを嫌い、オスマン帝国側に付いて参戦してくる。
この、ロシア 対 オスマン・フランス・イギリスの戦争に、ロシアは負けてしまう。このことによって、ロシア帝国の威信が失墜していく。
(余談だが、クリミア戦争で出てきた偉人がナイチンゲール)
いよいよロシアとしては、近代化、西洋化しないといけないと、国民国家として自分たちを生まれ変わらせなければいけないと、危機感を覚える。

実はこの当時に初めて、民族とは何か、国民とは何かが、世界中で定義されている。そして、この概念が伝わってくると、マロロシアとして統治されていたウクライナ人たちは、「自分たちはロシア人ではない、ウクライナ人だ」と意識するようになる。
ロシア政府はそれに対して、ウクライナ語の使用を禁止したりして弾圧を加えていくが、民族自決の流れを止めることはできない。

結局、ロシアはロシア人としてまとまることができず、日露戦争でも敗北を来してしまう。ヨーロッパから見れば、アジアの一後進国だったところに負けたということで、ロシア帝国の威信は地に落ちてしまった感じで、ぐずぐずと内部崩壊を招き、帝政の終焉を迎えることになる。
帝政の終焉の切っ掛けを改めて記すと、ニコライ二世に対してストライキ的なものをした農民が、生活が苦しいからどうにかしてくれと比較的穏やかに懇願しに行ったんだが、これを皇帝軍が無慈悲に射殺してしまう。
血の日曜日事件と言われるこの出来事を切っ掛けに、ロシア全体が混乱状態に陥り、そのまま第一次世界大戦に突入していく。

逆にいえば、日本は島国で日本人という国民意識をすぐにまとめることができた為、急速に近代化も西洋化も成し遂げることができたともいえる。

ならば、ロシアは何を以てまとまろうとしたかというと、共産主義というイデオロギー。短期間はソビエト連邦としてまとまることができたが、結局長くは続かず、未だに迷走を繰り返しているというのが現状といえる。


ウクライナの近代化

同時並行でウクライナがどうなっているかというと、ウクライナもロシア政府によって近代化が押し進められていた。
元々穀倉地帯でもあったウクライナは、穀物の運搬の為にも鉄道の建設が急務となり、工業化の先駆けにもなっていた。1800年代後半、ヨーロッパ全体で鉄道建設ブームが起こっている。
ウクライナ南東部に石炭が豊富に採れる土地があることも、ウクライナが重要な地域であるという認識を強めさせている。
その結果、工場労働者として、大量のロシア人がウクライナに働きに出るという現象が起こり、ウクライナにロシア人がたくさんいるという、現代にも通じる状態を巻き起こしている。
これが「ウクライナにいるロシア人を保護する」という、プーチンのウクライナ侵略の大義名分にもなってしまっている。
基本的にウクライナ人は農業に従事している為、工場で働く人はロシア人であったわけだ。この時点で、ウクライナの人口の20%をロシア人が占めるようになる。

現代のロシアでは、ロシア民族とロシア語を話す人を攻撃から守ることを国家の権利と義務であると決めている。これは1990年代にロシアのエリツィン大統領が主張し、後にロシアの軍事政策として、正式に盛り込まれている。


ウクライナ一瞬独立!…からの四分割支配

ロシアでは皇帝が処刑されてしまうんだが、その直後、ウクライナで何が起こったかというと、独立できた!
ウクライナ人には、自分たちはロシア人ではないという意識が芽生え、ロシア帝国という軛からも解き放たれ、自分たちで議会を作って独立を果たす。
だが、共産主義国家ソビエト連邦ができあがると、再びボリシェビキ(ソ連首脳陣)との戦いを経て包含されてしまう。
その独立期間、僅か14ヶ月。

その結果、四カ国に分割統治されるという状態に陥ってしまう。
ほとんどの部分は、ソビエト連邦の領地、残りのごく一部がポーランドとルーマニア、チェコスロバキアに分割統治された。
ソビエト連邦は、いろんな国の統合国家なので、名目上はウクライナソビエト共和国とされているが、実質、国家の主権は全くない状態で、ボリシェビキに支配されている。
陸続きの国が抱え込まざるを得ない宿命、どこまでが自分たちの国なのかが明確にできず、隣接国と争わざるを得ない苦悩が、この件で更に深刻になってしまう。
その点、日本というのは矢張り、とても恵まれた国だといえる。


レーニンによる忖度統治からの、スターリンによる弾圧


ウラジミール・レーニン

革命によってソビエト連邦を作り上げたレーニンは、比較的ではあるが懐柔策をとった。スターリンに比べたらという話しで…。
後継のスターリンは、ソビエト連邦を中央集権化する為に、ウクライナの自治を全く認めない政策をとって行く。

「スターリン」という姓は「鋼鉄の人」を意味する筆名であり、
本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。


レーニンはウクライナ語の使用を認めていたんだが、スターリンは禁止。
そして、農業を国家事業で行わせる政策を取るんだな。学校で習ったと思うけど、頑張ろうが怠けようが手取りは同じっていう政策。そりゃ、みんな怠けるに決まってる。
思い切り失敗して300万~600万の餓死者が出た。その結果、穀倉地帯であるウクライナに一気に皺寄せがいって、自分たちだって餓死しているのに、穀物を奪われるという悲惨な事態となり、ロシアへの憎悪が培われる。

レーニンは、初代の苦労人だけあって、ウクライナ人を政府要職に登用したりして、柔軟な対応をしていたんだが、スターリンは保身に走って、自分の周囲は親しい人で固め、政敵はことごとく粛正していく強権スタイル。
ウクライナからすると、最悪な状況。


第二次世界大戦勃発

タイトル通り、第二次世界大戦が勃発し、ドイツ軍がポーランドに侵攻して、三週間で崩壊させる。
この時点で、ドイツとソ連でポーランドを割譲する。その結果、ポーランドに編入されていたウクライナが、ソ連に編入される。更にその後、ルーマニアにあったウクライナの地域も全てソ連に編入され、今のウクライナは全てソ連に編入されるという状況に至る。

その後、ドイツのヒトラーと、ソ連のスターリンがガチで戦う歴史があり、悪逆非道なナチスドイツを打ち破ったという事実が、スターリン、ひいてはロシアの国家のアイデンティティーになっているらしい。
ナチスドイツは、ユダヤ人のみならず、ロシア人、ひいては東スラブ民族というのも、劣等民族として、殺処分対象だった。

戦勝国として、第二次世界大戦後の世界の枠組みを決定する為にアメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相とソビエト連邦のスターリンで行われたヤルタ(ロシア人にとっては温かなおもてなし都市)会談。
話が前後するが、ここでウクライナは全てソ連の統治下に収まったことが正式に認められる。


1953年以降:フルシチョフ→ブレジネフ→ゴルバチョフ時代

フルシチョフとブレジネフというソ連指導者が、ウクライナに対して懐柔策と強攻策を交互にやる時代。

フルシチョフの時代はとてもウクライナに対して融和的。

ニキータ・フルシチョフ

元々、ウクライナのドンバスというところで金属工として働いていて、長くウクライナで過ごしていた為、親ウクライナであった。
叩き上げって感じがするよな!
政界入りしたフルシチョフの昇進に伴い、ウクライナの扱いも好転していった。そしてなんと、クリミア半島をウクライナに移管するという大胆なことも行っている。ウクライナを自分の政権の基盤にする為という作為は勿論ある。その当時は、ソビエト連邦の社会主義は上手いこと機能していたので、そんな余裕もあったわけだ。

そして時代が飛んで現代、2014年、ロシアは再びクリミアを奪ったりしている。
歴史的経緯を辿ると、かつてイスラムとモンゴルの多民族国家であったクリミア・ハン国をロシアが攻めて併合し、ずっとロシア領土にしていたのを、フルシチョフがウクライナに譲渡して、ソビエト連邦が崩壊した後、ウクライナはクリミアと共に独立を果たしてしまった。それを、着々と国力を回復したロシアが、プーチン時代にやっぱ返せって取り戻した感じだ。
プーチンは「フルシチョフはまるで、ジャガイモを譲り渡すようにウクライナにクリミアを譲り渡してしまった」と、批判している。
続編として、プーチンの掘り下げもあるので、乞うご期待。

…正直、島国である日本国民にとっては、実感しづらい事態だと思う。
日本にとってのウクライナポジに当たりそうな北海道や沖縄の人は共感できるところもあるんだろうな。


ブレジネフは1960年代にソ連の政権を担った人物で、ウクライナには厳しい政策を取った。

レオニード・ブレジネフ

ウクライナの民族主義文化に逆風が吹く。ロシア語が奨励され、出版物も面白いものはロシア語で記すことが強制された。
このときのソビエト連邦は、経済が非常に悪い方向へ向かっていた。
1950年代の工業成長率は50%を越えていたんだが、1980年代には既に3.5%にまで落ちている感じで、凋落の一途を辿る。

ウクライナは工業化され、都市化が促進されているわけだが、この頃から、ウクライナ人も、農業から離れて工場で働く者も増え、農村から都市に住むようになった人も増え始めた。ウクライナ人とロシア人が更に混ざっていくこととなる。

余談だが、このブレジネフがロシアの伝統的挨拶であるトリプルキスを、外構の場で各国要人に積極的に行った為、トリプルブレジネフとして笑いを巻き起こすこととなる。詳細は以下のリンクから知ることができる。


1985年ソビエト連邦がぼろぼろになってきた時代、ゴルバチョフが政権の座に就く。

ミハイル・ゴルバチョフ

彼は二つの政策を行う。一つはグラスノスチ、もう一つはペレストロイカ。
グラスノスチというのは、これまで秘密主義であったところを、積極的に情報公開して行こうというもの。
ペレストロイカは、ソビエト連邦のシステムは存続できるという前提で、生まれ変わらせていこう、社会主義国家として新しいバージョンアップをしようという動きのこと。
ゴルバチョフの立場というのは、ソビエト連邦は存続できる筈だと、社会主義国家は上手く行くはずだというもの。
現実には、経済成長は凋落を辿るのみで、全く上手く行かなくなっていたんだが、それは何らかのテコ入れをすることによってどうにかできる筈だと考え、行動していった結果、失敗して、ソビエトは崩壊してしまう。

情報公開のグラスノスチが先に進んでしまった結果、汚職や秘密会談の事実を知った市民から、非難の声が上がるようになる。その結果、民主主義的な動きに火が点いていった。
同時期に、チェルノブイリで原発事故が起こり、この事実を数日伏せたりした為、やっぱり社会主義国家はよくねーなっていう認識が広まった。
経済も矢張り上手く行かないし、自由市場経済の方がいいんじゃないかと、ロシアの人々は思うようになる。
情報公開をしてしまったばっかりに、これまでなんとか誤魔化せていた人々の不満が、逆に抑えられなくなるという皮肉な結末を招いてしまう。

この中で、ウクライナも自分たちの主張をしていく。
ウクライナ語を母国語としたり、ウクライナ国民共和国という風に自分たちを捉えていく動きが始まっていく。
これはウクライナに限ったことではなく、ソビエト連邦としてまとまってはいたが、自分たちはロシア人ではないと思っていた人たち全員が、こういった思想的動きをして行くこととなった。リトアニア・エストニア・ラトビアといったバルト三国。


ソビエト連邦崩壊への流れ

ソ連はこれまで計画経済をしていて、決まったぶんだけ生産して、その分を消費するという感じだった。
ペレストロイカでは、そこに市場経済のようなものを一部導入しようとした。中国では鄧小平が同じようなことを行って、成功している。
だが、この政策は、ソ連の既得権益である共産党にとって、自分たちの利権を脅かしかねないとても都合の悪いものだった。
更にゴルバチョフは、共産党の一党独裁ではなく、複数の政党を淹れた多党制を導入しようとした。
これも共産党にとってはすごく都合が悪い。
その為、改革は一向に進まない。相変わらず経済も悪化している。
そして、少し変わったことが起きる。
ソ連を主導していたのはロシア共和国だった。だが、ロシア共和国の人々は、ちょっとそれおかしいぞって思い始める。
ロシア共和国にエリツィン大統領が登場する。このエリツィンからすると、ロシアはソ連の中でもの凄く割を食っているって話になる。
一つは、バルト三国のような西側の国は、ロシアに比べて生活水準が高いのがおかしい。
更には、中央アジアのカザフスタン・キルギスタンに対しては、ロシアからもの凄く援助をして発展させようとしている。
なので、ソ連とはもうやっていけないわって、主権宣言というものをした。
ソビエト連邦では、ソビエト連邦が全ての主権を持っているわけなんだが、ロシアはそれを認めない、ロシア共和国の主権は自分で持つと宣言した。
ロシアはソ連の中心なので、それをやられると困るということで、ソ連のトップであるゴルバチョフと、ロシアのトップであるエリツィンが二人で会談をして、市場経済化をきちんと進めるということで和解をする。
だが、その合意内容を、ロシアの秘密警察であるKGBに盗聴されていて、それを聞いていたモスクワの保守派は、「改革が進んでしまいそうだやべえ!」ってなる。
そこで、保守派はクーデターを起こし、休暇でクリミアにいたゴルバチョフを拘束してしまう。そして、権力を渡せと迫るんだが、その状況になったとき、エリツィンが、やっぱりソ連とはやっていけないと、ロシア共和国内での共産党の活動を禁止した。これで、ソビエトの権力というのは骨抜きになって、事実上、ソビエトは崩壊に向かっていく。

これに驚いたのが、ウクライナやベラルーシ、カザフスタンといった、ソビエトを構成する他の共和国。そこで、エリツィン大統領と、ウクライナの大統領とベラルーシの大統領が集まって、ベロヴェーシの森の陰謀という、ソ連崩壊後どうするかを決める会談を行った。
独立国家共同体(CIS)という新しい枠組みを作って、ソ連のようにガチガチに共産党が支配するわけじゃなくて、それぞれ対等な共和国が、みんなで協力し合おうぜっていうことに落ち着く。そして、これに参加する際には「もうソビエト連邦は消滅します」って条文にサインして貰う。
この結果、ソビエト連邦構成国15カ国のうち、バルト三国を除いた12カ国がCISに参加し、ソビエトは崩壊した。参加国は、それぞれ主権を持った国家として独立していく。

エリツィン大統領はロシア共和国をロシア連邦にして、今のロシアを誕生させる。ウクライナもクリミアを内包したまま独立を果たす。









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