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ウラジーミル・プーチンのルーツ

情報源


良くも悪くも世界中で注目を集めている人物である。
ただ、彼を語るうえで一つの大前提がある。彼について詳細を知ることは、どうしても限界があるということだ。
彼個人に関する確実な情報というのは驚くほど少ない。そして、彼やロシア政府から発せられる情報は、ほぼ全て、プロパガンダの目的で操作されたものなんだ。
その他の情報といえば、ゴシップや憶測といったきちんとしたエビデンスのないもので、それを分ったうえで、それでも尚、研究している人もおり、今回はそれを参考にしてCOTEN RADIOで語られた内容を文字起こししていこうと思う。

『プーチンの世界』というアメリカ政府のシンクタンクであるブルッキングス研究所の研究員によって書かれたもの。作者のフィオナ・フィルはアメリカの国家安全保障の中枢に関わっていた分析家。オバマ大統領の下で働いていた。
『プーチン 内政的考察』等々、日本のロシア研究を牽引してきた木村汎による著作。
他は、前述の通り以下の本の情報をもとに、COTEN RADIOで語られたもの。


プーチンのルーツ

プーチン一族のルーツというのは、モスクワから120kmほど北西にある村であるらしい。祖父はスピリドン・イワノビッチ・プーチンで、ホテルのシェフをしていた。
ちなみに、そのホテルによく来ていた客に、怪僧ラスプーチンがいたらしい。(長男アレクセイの血友病に苦しんでいた皇帝ニコライ二世一家の弱みに付け入って取り入った宗教家)
プーチンの父親は当時の首都であったサンクトペテルブルクで生まれ、母親はプーチンの祖父の故郷の三キロ先の農家で生まれたらしい。
要するに、プーチンは庶民の家で生まれた
お父さんは工場の労働者、お母さんは清掃員やパン屋の手伝いといった仕事を転々としていた。
お父さんは後々、KGBの前身である内務人民委員部というところに所属して、ナチスの占領地に派遣されて、焦土作戦を実行したりもしているらしい。そこで足を負傷して、障害者になった。
プーチンには兄がいたんだが、戦争で亡くなっている。サンクトペテルブルクから改名したレニングラードをナチスが包囲して、苛烈に責め立てていたときのことだ。それで少なくとも67万人が死亡して、その犠牲者の中にプーチンの兄も含まれていた。ちなみにそのときはまだプーチンは生まれていない。
プーチンは、プーチンの母親が41歳の時に授かった男の子で、ほぼ一人っ子のような環境で育つ。だから、もの凄く溺愛されたそうだ。
ここで何が言いたいかというと、プーチンの生まれた家は特権階級ではなく、既得権益には属さず、伝統的なロシア権力の枠組みからするとアウトサイダーだった。


幼年時代~KGB就職まで

彼が生まれた地区は治安が悪く、そこら辺でストリートファイトが行われているような場所だった。プーチンは体が弱く、虐められていたようだ。
実際、現在でもロシア人にしては小柄な168cmの身長。このため、プーチンは喧嘩でぼこぼこにされて恥を掻かされる。
このことに関してプーチンが大統領に就任してから言及したのが、以下の通り。本心だったのかは分らない。
「私はこの喧嘩に負けたことから四つの結論を導き出した。

一、私の方が悪かった。私がいちゃもんを付けたのが原因だからだ。

二、どんな相手に対してもそういう態度を取ってはいけないし、誰であれ敬意を払わなければいけない。

三、自分が正しくても悪くても、どんな状況でも、強くなければいけない。そうでないとやり返せない。

四、攻撃や侮辱にはいつでもすぐさま反撃できるようにしておかなければならない。勝ちたければ、どんな戦いでも最終決戦のつもりで戦い抜く。引き返すことなどできない、最後まで戦う以外に選択肢はない。

そんな過去を持っている💦

少年期のプーチン

その後、自分の身を守る為に、柔道とサンボ(柔道とレスリングを組み合わせたソ連発祥の格闘技)のトレーニングを積むようになる。
自分の身を守る為でもあり、勝つ為でもあり、身体的な劣等感を克服する為でもあったであろう。
この柔道はプーチンを結構変えたらしく、大統領就任後の日本訪問の際、講道館という柔道の総本山を訪問したりと、彼の中で大事にされている。

さらに、同じ時期の小学生高学年くらいのとき、スパイになりたいと志すようになっている。切っ掛けは『盾と剣』という白黒のロシア映画らしい。
14歳の時にKGBの支部に直接行って、「どうやったらスパイになれますか」と聞いたところ、結構真摯に対応して貰えて、「第一に志願してきた者は採用しない」「第二に、兵役を終えるか、どこかの大学を卒業した者でないと採用しない」という返事をされ、プーチンは更に「どの大学のどの学部がいいですか」と尋ねたら法学部の進学を勧められたので、法学部への進学を志すようになったとインタビューに答えている。

その結果、レニングラード大学で法律、特に『国際貿易法』を専攻する。つまり、彼の学問のキャリアの始まりは経済と法律の領域だった。
そして、大学卒業後、すぐにKGBの工作員として勤務できることとなる。


KGB時代

なぜ、経済と法律に詳しいとKGBに採用されたかという背景を説明しよう。
KGBというのは諜報機関なんだが、国家の安全保障というミッションの元、ソ連の経済政策に深く関わってきた組織なんだ。
どういうことかというと、KGBには、ソ連の中の経済活動や経済活動を行うプレイヤーたちを監視する役目があった。
つまり、経済犯罪を暴いたり、経済政策自体の立案に携わっていた。
あともう一つ、大事な仕事があって、西側諸国の資本主義経済やその思想がソ連に侵入してくるのを防ぐという仕事もあった。
つまるところ、経済との関わりが深い組織であった。

しかも、当時のKGBには人材採用の仕方に変化があり、当時のKGBの議長であるユーリ・アンドロポフは、急速に弱体化するソ連を改革する為に、古い体制を刷新しようと、若い人材で尚且つ既得権益から遠い存在を採用しようという革新的な人物だった。

ゴルバチョフに目を掛けたのもこの人物

その流れに乗って、ウラジミール・プーチンはKGBに採用されたと言われている。
ちなみに、プーチンが大統領就任後、KGBで受けた訓練で役立ったスキルは二つあると言及している。
一つは人間に対処した経験。味方を作ること。相手に共通の目的があると感じさせる誘導術。端的に言えば、人たらし能力
あともう一つは、大量の情報に上手く対処する能力。実際、俺も現代社会における玉石混交の情報の取捨選択には頭を抱えるところなので、とても大事な能力だと感じる。

当時のプーチンを知る人物によると、彼はとても人懐っこくて人当たりが良かったらしい。その人の印象は、これはKGB仕込みだなと感じたらしいんだが、別の人の証言によると、これは彼の個人的な性質なんじゃないかという評価がなされている。
俺としては、高齢出産の一人っ子として母親に溺愛されたことは想像に難くないし、更にいじめられっ子を脱却した過程で処世術も身に付けており、自尊心も社交術も備えたバランス型だと解釈した。

KGB時代、プーチンは海外にも派遣されている。
東ドイツのドレスデン。

第二次世界大戦の余波で、ドイツは西の資本主義国家と東の共産主義国家に分断されていた

東ドイツとは、ソ連の占領地域に建国された社会主義国家。
ソ連の衛星国家として、国として形はあるんだが、ソ連から主権を制限されている、そういう国家。
そこで彼が何をしていたかというのは憶測でしかないのだが、機密情報を盗み出すとか、ドレスデンに住まう西欧諸国の人間と接触して罠に掛け、弱みを握って協力者に仕立てるという工作もやっただろうと言われている。
主に行なっていたのは、西ドイツに対する工作や諜報で、より重要なのはNATO(北大西洋条約機構)というアメリカ・カナダ・西ヨーロッパの国々が加盟していた軍事同盟の動きを監視することだったと、ドレスデン時代の同僚の証言がある。

ただ、ドイツのジャーナリストによると、全く重要な仕事をしていなかったのではないかという意見もある。
つまるところ、いろいろな推測があって、謎(笑)

何はともあれ、このドレスデン時代はプーチンにとって学びになった。
丁度この時代にソ連が崩壊し、プーチンはソ連という土台に乗っている東ドイツが崩壊していく様を目の前で見て、更に、西側の資本主義が明らかに勝利しているという現実も直視することになる。
これは彼にとっても大きな経験だったようで、彼自身の言葉でこう語られている。
「イデオロギーよりも実際に役に立つシステムであるかどうかが大事である。確かに、社会主義のもとで計画経済というシステムをソ連は導入したけれども、結果的に上手く行かなかった。だとしたら、市場経済よりも効果が低いということはきちんと認識しなければならない。
ロシアが生き残るには、市場経済システムの導入以外に道はない。
特定のイデオロギーや政治指導者に盲目的に忠誠を誓ってはいけない。
あくまで重視するのは現実的な考察、実際の経験、歴史の教訓に基づくものであるべきだ」

当時の同僚の証言によると、プーチンは重要な仕事を任されているソ連の共産党員だったわけだが、実は共産主義に対して結構批判的で、経済の自由化というのは必要だと考えているし、東西で人的な移動を自由にした方が良いっていうのを当時も考えていて、今でも考えているんじゃないか、といったことを言われている。

もう一つ、ドレスデンでの経験が彼に及ぼしたことがあると推察されている。
一瞬にして東ドイツが崩壊したことで、平穏な生活が一瞬で崩れ去るトラウマのようなものを背負ってしまったのではないかというのが、ドイツの週刊誌の記者による分析で、それがプーチンの政治家としての出発点なのではないかと言及している。
この分析を証明するかのように、プーチンの大統領就任直後、G8サミット直後、沖縄を訪問し、当時の日本の首相森喜朗と会談した際、こう不満を零したという。
「ロシアが民主主義とか法の支配といった西側の価値観を受け入れるのは、簡単なことではありません。いくら頑張ったとしても。
…けれど、NATO北大西洋条約機構は、相変わらずロシアの包囲網を作ろうとしていますね」と。
西側が自分たちのことを追い詰めて、常に自分たちから一瞬にして平安を奪い去ろうと陰謀を企てているんじゃないかという感覚を、東ドイツの崩壊によって覚えてしまったのではないかと、朝日新聞の国際報道部の記者たちもしている。
あくまでも一つの見解である。


政界入り

彼はKGBとして活動していたわけだが、ここで政治の世界に入って行く。
ソ連崩壊直後に、ドレスデンからレニングラードに呼び戻される。
これが1990年。彼の法学部時代の恩師だったアナトリー・サプチャークという人物がレニングラードの市長選挙に出馬するということで、プーチンを自分の政治活動のブレインに据え、市長選に勝利する。

アナトリー・サプチャークと副市長プーチン

プーチンは、副市長と共に市の貿易を司る対外関係委員会議長という役職に就任する。ここにおいて、KGBを辞職する。
モスクワのKGB本部に戻ってこないかという話もあったらしい。海外出張を終えた後、KGB本部に戻るというのは出世コースらしいんだが、プーチンは組織自体に未来がないから、残ってもなんだなと見切りを付けたといったことを、インタビューを受けて応じている。

1991年6月、エリツィンがロシアの大統領に当選する。そして、1991年12月にソビエトが崩壊する。
この時期にプーチンがどういった仕事をしたかというと、対外関係委員会議長という長ったらしい名前の役職をメインに、経済活動の促進に従事していた。ロシアに進出してくる外国企業や、海外に進出するロシア企業の窓口を務めていた。企業に営業許可を与えたり、設立のお膳立てをするといった仕事だ。
1991年には、ドイツに本部を置く多国籍企業であるシーメンスがレニングラードに支店を置く。続く1993年には、パリ国立銀行とドイツのドレスナー銀行というのが共同出資の銀行を開設する。
当時、西側の銀行をロシアに開設するというのは、プーチンの大功績と評価されている。


食糧供給での失敗

彼がもう一つ任されたのが、食糧供給だった。当時のロシアというのは全体的に物資が不足していた。
あらゆるものが慢性的に不足していて、食べ物も建築資材もこまごまとした消費物も、供給が常に不安定だった。
首都であるレニングラードですら同じような状況で、兎も角食糧が必要だと切羽詰まっていて、プーチンはその調達という重要な任務を任された。
だが、プーチンはこの任務で大失敗をして、政治スキャンダルにまで発展して失脚しかけた。
事情を説明すると、当時のレニングラードは物資の調達ルートを持っていなかった為、プーチンは幾つかの民間業者を取引の中間業者に指定した。
「海外から物資を調達して、レニングラードに届けてくれ」という段取りをした。
しかし、商社からレニングラードに届けられたのは、最初に同意した食糧のほんの一部のみだった。しかも、レニングラードに届く筈の貴重な食糧がモスクワに届けられていた。
どうしてこんなことが起こってしまったかというと、取引を主導した中間業者による中抜きや横流しが行われていた為だった。
これは、プーチンのマネージメント能力の欠如ということで責任問題にまで発展し、大変だったようだ。
ここでまた、プーチンは教訓を得る。
「喩え大きな利益に結びつくように思えても、民間企業は当てにならない。予測不能な状況に於いて、民間企業は社会に対する義務など無視をして、目先の利益だけを求めようとする。だからこそ、国家の指導者は民間業者をコントロールできるだけの権力を、常に保持していなければならない」
この経験が、後々の彼の政治的姿勢に現れてくる。


中央政界入り

プーチンが補佐していたアナトリー・サプチャークが1996年に市長の再選に失敗する。これを切っ掛けに、プーチンは彼から離れ、モスクワの大統領府で働くようになる。
大統領府総務局次長という結構地味なポストがスタートだった。
そんな彼が、何故抜擢されたかというのも、研究者によって考察されており、プーチンはどうやら、自由主義経済の改革グループにビジネスを教育する専門家として迎え入れられたと言われている。
ロシアはソ連が崩壊して、経済をなんとか復活させないといけない状況にある。そこで、経済を自由化しようということになったんだが、民間企業や資本家が国を食い物にしないよう監視しなければならない。
そこで、プーチンの政治的信念や、失敗から学んだ経験が買われ、抜擢されたのではないかと推測される。


三年後、謎の異例の大出世

二年後の1998年、KGBの後継組織であるロシア連邦保安局の長官に就任する。更にその一年後、エリツィン大統領によって後継者として指名されて、首相を経て、2000年に選挙を経て、大統領に就任した。
プーチン自身もこの辺りの経緯は詳しく語っておらず、なんとも言えないのだが、考察としては、彼は経済を管理するポジションとして働いており、具体的には税金を徴収する仕組みを作ることに従事していたのが重視されたのだと思われる。。
当時、ロシアが弱体化した原因は、税金を集める能力に欠けていたという研究があり、その為に政府は大きな政策を実行できず、だから経済も伸びることができずに、益々税収が落ちるという悪循環に陥っていたのだと指摘されている。
更に、それまで社会主義だったので、個人や企業が税金を自治体や国に直接支払う習慣が、そもそもなかった。税金を計算して徴収する為の行政の仕組みすらなかった。更に、脱税が日常茶飯事だった。
腐敗も当たり前で、金持ちが政府の役人を買収して、脱税のみならず、課税に関する法律の制定にまで影響を及ぼしていた。
――…えーっと、平安時代の日本と同等?
これを、なんとかしてくれと、プーチンが抜擢されたわけだ。

更に、周囲にカリスマを見せつけた事柄がある。
プーチンが首相に就任した直後の1999年に起こった、第二次チェチェン紛争の際の話。
チェチェンというのはロシア連邦を構成する共和国の一つだった。
ロシア連邦は、一つ一つの共和国が国のような機能を持っていて、それをロシア政府が強い主導権を以て率いている形の国家だ。
チェチェンはそのうちの一つの共和国だったんだが、ここはイスラム教徒の国で、分離独立しようとした結果、それを阻止しようとしたロシア連邦との紛争になった。
第一次チェチェン紛争では、10万人という被害者を出しながらも、チェチェンは事実上の独立を果たした。その後、イスラム過激派が浸透して、ロシア各地で爆破テロを行うようになる。
その報復としてプーチンは、第二次チェチェン紛争を始めるんだが、このことによってプーチンは強いロシアのイメージを作っていく。
「チェチェンのテロリストは、便所にいても捕まえて、奴らをぶち殺してやる」というのが、このときの発言である。これで、民衆の人気が高まった。

もう一つ、エリツィンがプーチンを何故これほど取り立てたかというのは、一説によると、エリツィンの周囲で権力を持っていた政商(セミヤー)と呼ばれる、政府と一緒に商売をする人たちが、自分たちを排除する可能性のない人物として、プーチンを後継者として推したのではないかと言われている。
プーチンは、政治的経済的バックグラウンドがない為、言うことを聞かせやすいだろうと、自分たちの利権を守る為に推挙したということだ。
ところが、いざ据えてみたら、めちゃめちゃ税金取ってくるし、全然利権を守ってくれないみたいなことになって、大誤算だった。

ここで、ロシア連邦における首相と大統領の関係を明確にしておくと、首相は大統領から任命され、議会の承認を経て成り立っている。
一応民主主義国家ではある為、大統領自体は、国民の選挙によって選ばれるんだが、マスコミが国に情報統制されているので、大統領に都合の悪い情報を流すことはできない。マスコミが成り立つ為の広告収入すら見込めない程、市場経済が未熟だというのもある。
議会もプーチンに掌握されているので、大統領に対抗できない。全会一致ばかりで法案が通る議会とか、機能していないに等しい。
結果、今のロシア連邦では大統領が非常に強い権限を持っている。

そもそも、ロシアという国は、専制国家に慣れている。
ロシアという、極寒の地に広大な土地を持ち、内部にいろんな民族を抱え込み、問題を孕んでいる国が、投票で上手く行くとは、中の人たちも余り思っていないのではないか。ある程度強いリーダーシップで引っぱって貰うのが上手く行くのではないかと、考えている節があるかもしれない。

正直、エリツィンは少々頼りなかった。だが、プーチンは税金バリバリ取ってくるし、強い信念を持っているし、対テロ対策にも強い姿勢で臨み、「ロシアを、自分たちを守ってくれる。ソ連崩壊後、落ち目であったロシアを、再び復興させてくれる」という希望を抱かせるカリスマ的指導者となった。

余談だが、政治システム自体はフランスから持って来ており、大統領と首相が両方いる体制のことを、半大統領制という。ソ連もロシア連邦もウクライナ共和国も、この半大統領制を採用している。
ただ、ロシアの政治体制は社会主義から脱してできあがったばかりである為、きっちりと決まってなかったり、情勢によって刻一刻と流動的に変わっていったりして、なんなら憲法や法律を大統領の都合の良いように現行で書き換えて行っている感じで、日本人の感覚とはかけ離れた政治体制だと言えるだろう。


新興財閥(ロシア語にてオルガリヒ)の把握

プーチンが、企業活動を監視して税金を取るという政策だが、具体的に言うと、ロシア全土に検査官を派遣して、公的機関民間企業の財務情報を集め、更にそれを分析して、腐敗や横領といった違法行為を取り締まったりしている。
腐敗があまりにも根深かった為、武器での威嚇といった実力行使で取り締まることもあり、ときにはライフルで武装した工作員を大企業の本部に送り込んで財務記録を押収したこともあったらしい。

プーチンの立場や地位が上昇していった秘訣は、ロシアの新興財閥たち(オリガルヒ)の財務状況を、プーチンが独占的に把握できる立場になったという考察もある。
政治力と軍事力で、経済力を支配下に置き、いわば特権を手に入れた。
この、オルガリヒの財務状況を独占できる権利だけは、現在でも決して手放そうとしないらしい。

オルガリヒについてだが、ソビエト連邦が崩壊した直後に民主化して行って、市場経済というものが導入されたときに、社会主義からいきなり民主主義に切り替わってしまった為、市場経済の担い手という者がすぐには現れなかった。
たとえば、フランスやイギリスだと、既にブルジョアジーといういわゆる富裕商人が栄え、発展していた為、近代化がスムーズに行われた。
日本だと明治維新直後、江戸の大店が前身である住友財閥や三井財閥とかに任せていく形で産業化できた。
そんな風に、最初から担い手がいたお陰で、スムーズに市場経済というものに移行できた。

ロシアにはそういった経験豊かな担い手がいなかった為、共産党幹部が天下った形で企業の社長になっていった
その結果、談合・癒着といった自分だけを利するような商法が横行し、物価が爆上がりし、「民衆どうでも良いわ!」的商売が横行した。
そういう奴らを、ボッコボコにした正義のヒーローに、プーチンはなったわけだ。

実際、プーチンが政界入りした1990年代のロシアの状況というのは滅茶苦茶酷かった。
価格の自由化とか国営企業の民営化とか、民主的なことを頑張ってやったんだが、裏目に出て、物価が月平均で20%上昇して、国民が一生懸命蓄えた貯金が、一瞬にして紙切れになり、政府による年金みたいな保証もないという状況だった。
そりゃ、長年真面目に頑張って貯金してきたのに、いきなり明日をも知れぬ浮浪者身分に叩き落とされたんじゃ、俺だったらバーサクする。

政治闘争も深刻化しており、統治がほぼ不可能な状況で、殴り合いで議会が中断されるレベルだったらしい。
プーチンは当時の状況を「乱闘騒ぎの繰り返しで、政治に嫌気が差した」と吐き捨てるように述べている。


1993年モスクワ騒乱事件

エリツィン大統領に対して議会は反発し、副大統領を担ぎ上げて内閣を立ち上げてしまう。
それにエリツィン大統領がぶち切れて、戦車を動員して議会勢力を攻撃して、大勢の死者が出るという事件を起こす。
この件がまた、プーチンに影響を与えたと本人が述べている。
「政治的な対立に敗れたものは、壁際に追いやられて抹殺される。
我々は自分たちの立場を十分に理解している。
本流から逸れた瞬間、壁際に追い込まれて殺されてしまう。だから、壁際には行きたくない」
ロシアの歴史を紐解くと、血みどろの政争というものが繰り返されてきている。これは中国の歴史にもいえることで、ユーラシアの中央にいる国々というのは、これぐらいの覚悟がないとまともにまとめることができないということを示唆しているのかもしれない。
…日本では政治闘争で戦車を出さないしな。

オルガリヒによる腐敗政治には、エリツィンも一枚噛んでいる。
彼は自分の政治活動資金を確保する為に、有力実業家や金融機関に特権をばらまいた。その結果、実業界が政治世界に食い込むようになり、ロシアの政策決定を自分たちの利益の為に誘導できるほどの権力を持つようになってしまった。それは裏を返せば、それだけエリツィンの権力基盤が弱かったということでもある。

この、混迷するロシア連邦の大統領に就任してのプーチンの解説については、次のページで語りたいと思う。

























































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