見出し画像

【随想・随筆】美人(美しい人)とは何か~画一主義批判~

今回の記事はやや女性向け?だと思われるが、男性の方に読んで頂いても構わない。「美人(又は美しい人)とは何か」というテーマで、画一的価値観の蔓延に対する抵抗を試みようと思う。

まず、この「美人」の定義(まあ今回は女性を念頭に置くので「美女」あるいは「美少女」と言った方が適切かもしれないが)だが、正確な定義は難しい。むしろ、
「みんな(多数)が何となく可愛い・美しいと感じる人のこと」
という曖昧な方が実態としては近いだろう。
では、可愛い・美しいとは何か?
これも定義するのは困難で、各人の主観に委ねつつ、それを集合させ、とりあえず「客観的に」可愛い・美しいと言われているもの、とでも言うしかなさそうだ。
よく使われる言葉のわりには、定義がいい加減なわけである。

いい加減なのだから、本来この可愛さ・美しさというのも多様であるはずだ。しかし、実際に可愛い・美人と呼ばれている人を見ても、筆者はそれほど美しいと思わないことが多い。おそらく、どうも個性を感じず、紋切り型の美人に止まっているから、かもしれない。三浦展風に言うなら、「ファスト美人」とでも表現できるだろう。
つまり、本来多様なはずの美人が、何かしらの「型」にはめこまれ、画一化・均一化されているのではないか、ということだ。
北海道には北海道の、青森には青森の、秋田には秋田の美人というのが存在するはずだ。もっといえば、同じ北海道でも、道北・道東・道南といった区分で変わるとか、同じ札幌でも創成川を境に変わるとか、青森県でも南部地方と津軽地方で違うとか、秋田県でも秋田市を境に北と南で顔立ちが変わるとか、その他いろいろ、地域によって特色ある美人が存在するはずなのに、どうもそれが感じられない。
確かに、「秋田美人」なる言葉は存在するし、実際そのような人はいるのだろう。しかし、どうも私はこうした類の言葉が、本来の意味を離れて使われている気がしてならない。つまり、ここでは「都会から見た」イメージ(偏見)として「秋田美人」という言葉が使われているのではないか、ということだ。

ここからは完全に筆者の空想になるが、おそらく、本来の秋田美人というのは、まさに秋田の気候風土によって生まれた、生粋の秋田美人であったのだろう。
しかし、飛行機や新幹線の発達で東京を始めとした大都市とつながってしまい、人口を奪われた結果、人々は観光でまちを立て直すことを決意。その結果、本来の文化や風土を「大都市の【お客様】に気に入ってもらえるもの」に塗り替え、PRした。「秋田美人」もその例に漏れず、雑誌やテレビで勝手に大都市目線でイメージが形成され、それに追随する形で本来の「秋田美人」は歪められ、大衆化・俗化していった…というのが筆者の空想である。

もちろん、こんなのはつい最近筆者が唐突に思いついた妄想なので、何らの科学的・論理的根拠もない。だが、ここで重要なのは、「美人」というのは単なる概念にすぎず、時代によって、地域によって変わる相対的なものでしかない、ということだ。要するに、普遍的なものではないのである。
にもかかわらず、日本の女性はどうもこの「美人」というものにこだわりすぎている気がするのだ。そんな概念、風向きのように変わる儚いものでしかないというのに。
日本人女性が美にこだわる理由、というか背景のひとつにマスメディアの存在があるだろう。筆者はよく本屋に行くが、大型書店なら美容系の雑誌がずらりと並んでいるし、イオンなどの化粧品コーナーでは、メディアで美人だと「されている」女性がキラキラした表情で商品を手にし、まるでそれを買えば同じようになれるといわんばかりの、けばけばしい光景を目にする。仮に日本の女性たちがそんなものに何の興味も示さないなら、メーカーはそんな商品を開発することも、有名人女性に広告塔になってもらうことも依頼しないだろう。続けているということは、その商品が売れているということ、つまり、需要があるということだ。

しかし、よく考えてみてほしい。その商品を買えば本当に美しくなれるのだろうか?いや、そもそも、その商品を宣伝している女性は本当に美人なのだろうか?
広告塔の女性は、大抵は有名人であろう。無名の人より宣伝効果が高いからだ。
では、その有名人とはどういう人か?
多くのメディアに登場している人である。
では、そのメディアはどこに本社を置いているのか?
東京、あるいは地方の拠点都市である。ついでにいうと、そうしたメディアに担がれるような女性も当然、そうした大都市のどこかに住んでいる。
おわかりいただけただろうか。
化粧品の広告塔の美人女性とは何か?
それはつまり、多くの人口を擁する都市に拠点を置く巨大メディアが、自身の広報・商業活動のために作り上げた「人工的な」美人なのである。
要するに、本来の美しさとは関係なく、資本主義・商業主義というシステムに乗っかった者の「都合」で生まれた存在にすぎない、ということだ。
誤解のないように言っておくが、広告塔の女性が醜いわけではない。その美しさが、あくまで企業側の都合で「イメージ」として使われているだけ、ということである。これはアイドルや政治家でも本質は同じである。

さて、こうしてメディアの商業活動にとって都合の良い女性有名人が、キラキラした表情で化粧品その他の美容商品を宣伝すると、どのような価値観が形成されるか。それは、「肌が綺麗な女性は美しい」という価値観である。「そんなの当たり前じゃないか」と読者は言うかもしれない。だが、私に言わせれば、そう考える時点でメディアの情報操作に嵌っている。
確かに、肌が綺麗なことは「美」の一要素かもしれない。しかし、それはあくまで「美」の一部分にすぎず、「美そのもの」ではない。
いや、そもそも、肌が綺麗ならば美人、であったとしても、美人ならば肌が綺麗、とは言い切れないだろう。逆は必ずしも真ならず、だ。
これは筆者の個人的感想だが、化粧品で肌を加工して美人を気取り、紫外線を避けて都会の無菌空間(クーラー、エレベーター、殺虫剤など、「不快」な要素を排除可能な空間)にこもる似非美人より、三十歳、あるいはそれ以上の年齢になっても、屈託なく草むらを走り回り、花や昆虫などの自然とたわむれ、日光を浴びた結果日焼けして多少肌にダメージを受けたり、ほくろやそばかすがついてしまった女性の方が、何倍も美しいし、こちらこそ真の美人だと思う。
もっとも、メディアがこういう女性を担ぐことはないだろう。絶対数が少ないのもそうだろうし、外に出て日を浴びることを良しとする価値観では既存の化粧品など売れないからだ(日焼け止めクリームは売れるかもしれんけど)。そもそも、そうした女性の快活な振る舞いは「女らしくない」として、一定の年齢に達すると親・社会の横やりが入り、本人にとって継続が難しい、という背景もありそうだが。

いろいろ書いたが、要するに、メディアの都合で作られた虚ろな「美」に踊らされる必要はないのではないか?ということだ。彼らは女性を美しくすることに興味などないはず。金になりそうなファッションやヘアスタイル、美容整形が見つかれば、つい最近まで、やれ最先端だ、洗練されたスタイルだ、と宣っていたものをあっさり「時代遅れ」「古い」と切り捨て、新しいコマーシャリズムを展開してくるだろう。資本主義社会では、「美」すら消費され、捨てられるものに成り下がる。情けない話である。
もっとも、これは女性だけの責任ではない。というか、男の方が罪が重い、とすら私は思っている。
「化粧なんてしなくても、最新ファッションに身を包まなくても、芳しい香水をつけていなくても、君は充分綺麗だよ」
とでも言ってやれば万事解決なのだが、我が国(まあ実質は全世界)の情けない「男さん」は下半身のことばかり考えるので、新しい美容商品・技術によって自らの官能が刺激されることを、無上の喜びだと思ってしまうのだ。無駄な美容商品の製造・消費・廃棄によってどれだけ環境が汚染されているか、という問題には一切目を向けずに。この点、男女の共犯関係が成立しているといえよう。男がだらしないから、女は無駄なことをするし、女が媚びを売るから、男もだまされてしまうのだ(やっぱこう書くと男の方が悪いかな笑)。

画一的な「美」への違和感は他にもある。
たとえば、空港やホテルのフロントにいる女性、非常に清潔感があり、人にもよるが元気も良く、美人に見える。だが、私は彼女たちを見て、違和感に襲われるのだ。何か違うぞ、と(誤解のないように言っておくが、職業差別をするつもりはない。彼女たちは組織の規定に従って業務遂行しているだけだろうから。あくまで私の感想、ということに注意されたし)。
確かに、髪をきちんと縛り、服装を正し、明るい笑顔を振りまけば、一見好印象に見える。だがあくまでそう見えるだけであって、作りもの、紛い物に見えてしまうのだ。統一感という美しさはあるかもしれないが、個性が消え、私にとっては、まるで工業製品のように無機質に感じる。庶民感が消え、どこか気取ったような印象に変わってしまうのである(まあ、これは筆者の穿った見方によるものかもしれないが)。
これと類似したテーマについては『私の「恋愛」が終わった日』という記事にも書いたことがある。中学に進学し、制服を着るようになった結果、女性陣の個性が一気に消え、無機質な「ファスト少女」が量産された(むろん私も「ファスト少年」になってしまった)。だから、彼女たちの記憶はあまりない。とくに、先日の本州紀行記事で軽く触れた、昔の同級少女は小学校時代の鮮烈な印象に比べ、中学時代の印象は殆ど残っていない。中学校というのは、子どもたちを規格化し、均質化する歪な空間だったと今では思う。まさにヘッセの『車輪の下』と同じだった。
こう考えると、記憶というのは単体で保存されるのではなく、周囲の風景や本人の服装など、多様な環境と合わせて記憶・保存されるものだ、ということがよくわかる。プルーストはそのことを主張したかったのかもしれない。

脱線してきた気がするので、話をもとに戻そう。
世の中は資本主義(金儲け)という論理で動いており、そこではあらゆるものが商品化・効率化・画一化・定量化されていく。「美」もその例外ではない。だから、本来の「美」を取り戻したいのなら、こうした歯車から抜け出して距離を取り、自分の頭で考え直さなければならない。何が本当の「美」なのか、ということを。
一応付言しておくが、これは既に恋愛も結婚も断絶している私だから言えることである。この2つを目指す場合、これらも資本主義に侵されている以上、完全に断ち切るのは極めて難しい。見合いの場で「わたしのそばかすを愛して」と言っても鼻で笑われるかもしれない。だから、本記事を読んで「婚期を逃しちゃったじゃないの!どうしてくれるのよ!」
という風にならないよう、お気をつけ願いたい。
前にも言ったが、私は男性ではあっても「男(ジェンダー的な意味での)」ではないので、恋愛や結婚を目指す場合は私が言うのと逆の道を歩んだほうが賢明かもしれない。そもそもアドバイスできるほどの経験や知識はないのだ。
私はあくまで、世界を画一的な価値観・規格に押し込めようとする、この世界の傲慢な趨勢に、ただひとり反旗を翻しているだけなのだから。
(おわり)


興味を持った方はサポートお願いします! いただいたサポートは記事作成・発見のために 使わせていただきます!