「ギャルゲー」とは何かについて考察する

0.はじめに

皆さんは「ギャルゲー」と呼ばれるゲームを遊んだことはあるだろうか。ギャルゲーの定義は様々だが、広義では「魅力的な女性キャラクターが登場するゲーム」を指すという。この定義だと、「デッド・オア・アライブ」のような格ゲーも含まれるだろう。
しかし、今回私が考察する「ギャルゲー」は狭義の意味、すなわち、「恋愛を主軸とした」アドベンチャー及びシミュレーションゲームに限定したい。したがって、恋愛要素はあるがそれが主軸ではない作品(パワプロ・パワポケなど)ではなく、恋愛が主軸になっている作品(「ときめきメモリアル」など)が主な考察対象になる。

以下、ギャルゲーについて考察していくが、ギャルゲーに関する簡潔な歴史を記述してから考えていきたい。
※なお、筆者は「ギャルゲー」というジャンル全体に造詣が深いわけではない。あくまで素人の考察なので、その点だけご留意いただきたい。

1.ギャルゲーの歴史~エロゲーからギャルゲーへ~

ギャルゲーと類似の概念として「エロゲー」がある。これはPCが一般家庭に普及する過程でグラフィックが向上し、ゲーム内で「エロ表現」ができるようになって生まれた作品である。そして、この「エロゲー」から直接的性表現(18禁要素)を削除・修正して生まれたのが「ギャルゲー」ということになる。つまり、ギャルゲーの元祖はエロゲーである。私は当時を知らないので詳しいことはわからないのだが、黎明期のエロゲーはストーリー性が薄く、ゲーム部分は「エロ」へ到達するまでの過程に過ぎなかったらしい。

そこから今度は美少女を「育てる」ゲームとして「プリンセスメーカー」が開発され、そこから発展し、恋愛を疑似体験する作品として「ときめきメモリアル」が発売された。この作品は架空の高校生活を送りながら女の子と親しくなる「恋愛シミュレーションゲーム」の開祖とも言える作品だ。システムも「実況パワフルプロ野球」のサクセスモードの原型であり、有名なのでギャルゲーに興味がない人にも認知度の高い作品といえるだろう。
この後は文章を読んで選択肢を選んでいく「恋愛アドベンチャー」あるいは「ビジュアルノベル」がギャルゲーの主流となり、ストーリー性も重視されるようになっていった。おおまかな流れとしてはこんな感じだ。


2.ギャルゲーに対する批判・偏見とそれに対する回答

さて、そんなギャルゲーであるが、あまりいい印象を持たない方もいるかもしれない。「二次元世界の少女に萌えて気持ち悪い」とか「極度に男性目線で理想化されたヒロインに違和感を覚える」という感想を持つ方も少なくないだろう。そういった感想を私は間違いだとまでは言わないが、その感想がきちんと本質を捉えているかと問われれば否と答えるだろう。

まず、そもそも論として上記の批判はギャルゲーだけに当てはまるものではない。上述した「萌え」はドラマや映画や小説の人物を「かっこいい」とか「かわいい」と思うことと大差ないのである。ここで、たとえばトルストイの小説のヒロインをかわいいと思った人が、トルストイの小説は純文学つまり芸術だから高尚であり、低俗なギャルゲーとは違い気持ち悪くはない、といった(階層意識に基づく)反論をしても無意味である。どちらも現実に存在しない(理想化された)ヒロインという意味では変わらないからだ。
仮にギャルゲーを遊んでいるだけで気持ち悪いとされるなら、アニメや映画、小説や舞台を観ている人も同じように気持ち悪いとされてしまうだろう。
つまり、ギャルゲーにせよ純文学・映画にせよそれらはあくまで創作にすぎないのだから、「リアリティ」という物差しだけで測るのはナンセンスである。

別の批判としては「正しい選択肢を選ぶだけで好感度が上がるなど現実ではありえない(だから気持ち悪い)」というものもあるだろうが、そもそもシミュレーションゲームにリアリティを求めたらゲーム性は破綻する。同じシミュレーションゲームの「ダービースタリオン」や「シムシティ」「パワプロ」のサクセスモードにせよ、ゲームを快適にプレイする上で障害となる要素は捨象されるのが普通である。
たとえば、パワプロでは打撃練習をすればそれだけで打撃能力は上がる。しかし、現実世界では素振りをしたからといって必ずしも打撃がうまくなるわけではない。ここでゲームをリアルに接近させて打撃練習をしても打撃能力が上がらないことがある、という仕様にしたらどうであろうか。間違いなくゲームとして面白くないだろう。
なぜなら、入力(選択)と出力(結果)が不一致となることでストレスが生じるからだ。ホームランバッターを作りたいから打撃練習をしているのにパワーが全然上がらないとなれば、ゲームとして興ざめだろう。

ギャルゲーも同様で、あくまで「ゲーム」として成立させる必要がある以上、ある程度リアリティを捨象しなければならないのだ。そもそもシミュレーションゲームにおいて重要なのはリアリティではなく疑似体験性なのだから当然といえば当然であるが。

3.ギャルゲーは恋愛シミュレーションとして機能するのか

「なんかオタクがギャルゲーを擁護し始めたよ…。気持ち悪いわ…。」と思った方もいるかもしれない。
誤解のないように言っておくが、私は別にギャルゲーを賛美したいわけではない。私はテレビゲームが好きだが、ギャルゲーはどちらかというと苦手ジャンルである。個々のギャルゲーでは面白いと感じる作品はあるのだが、それでもギャルゲーというジャンルそのものを「面白い」とまでは言えない段階にある。
しかし、ゲーム好きである以上、苦手ジャンルであってもある程度は知っておかなければならないし、自分の理解度のなさを棚にあげて似非評論をするのも嫌なので、正しく理解するためにこうして記事を書いている。この点は眞紅の蝶の記事でも書いた。

それで、先程の偏見や批判はどこから来るのかと言えば、おそらくギャルゲーを「恋愛シミュレーター」だと誤解していることからではないだろうか。
私が思うに、ギャルゲーは「恋愛シミュレーター」ではなく「恋愛要素のある」架空世界体験ゲームである。
私は恋愛経験が皆無に等しいので、恋愛というものをよく知らない。しかし、それでも恋愛というものがゲームのシミュレーターのように上手くいくはずがないことくらいはわかっている。ゲームでは同じアクションに対してヒロインの反応は1つしかないが、現実には同じアクションをしても時と場合によって相手が受ける印象はいくらでも変わる。つまり、現実の恋愛は不確定要素が非常に多く、そのままそれをゲームに落とし込むことはできない(落とし込んだらゲームとして成立しない)。
だから、ギャルゲーは恋愛シミュレーター(恋愛の練習)としては機能していない、というのが私の説である。
※もちろん、うまく活用した猛者もいるかもしれないが、ごく少数だろう。

先程私はシミュレーションゲームにおいて重要なのはリアリティではなく疑似体験だと述べた。要は手の込んだ遊びである。プレイヤーも現実世界でこんなにうまくいくとは思っていないはずだ(思っていたら現実世界で努力するだろう)。シミュレーションゲームにおいてプレイヤーが求めているのは「叶わぬ夢(願望)の疑似実現」である。金銭的・時間的余裕がないために実現できない夢、会社経営や街作りなどをゲームの中で構わないからやってみたい、というわけだ。

4.恋愛資本主義、自由恋愛至上主義に対する解毒剤としてのギャルゲー


今や恋愛は自由で平等になったとか言われているが、あくまで機会の平等ではあって結果の平等ではない。また、自由になったということは競争原理が働いて負ける者も出てくることになる。自由と言えば聞こえはいいが、選別と淘汰が横行している、とも言えるのだ。
そういった背景を踏まえれば、「ギャルゲー」というジャンルが未だに一定層に支持されている理由が見えてくるはずだ。つまり、人はついに果たされ得なかった「理想の恋愛」を疑似体験するためにギャルゲーをプレイするのだ。「本当はあの子と結婚したかったけど、あの子は他の人の所に嫁に行ってしまった。果たせなかったこの思いを(疑似体験でもいいから)叶えよう」というように。
傍から見ればそれは気持ち悪く映るのかもしれない。
しかし、人間は何か願い(希望)があるから生きていける。絶望してしまえば生きていけないのだ。そういった意味でギャルゲーは恋愛に己の願望を投影できなかった者たちに対する一種の心の解毒剤、鎮魂歌ともいえるだろう。

5.ギャルゲーの意義と効用

ギャルゲーについて考察してきたが、結局ギャルゲーの存在意義と効果は何なのかについて語っていきたい。
現在主流となっている恋愛アドベンチャーを中心に考えていくが、この手のギャルゲーの「ゲーム性」はジャンルで比較するとアクションゲームやRPGに劣ってしまう。これはギャルゲーに限った話ではないが、基本的には選択肢を選ぶだけなので、アクションゲームと比べると自分の腕が上達する実感も湧かないし、RPGのように広大なフィールドを探索する自由度もない。ただ淡々と選択肢を選び、文章を読んでいくだけである。

こう書くとかなりマイナスポイントに見えるが、要はシンプルでストレスが少ないゲーム設定だということでもある。RPGだとセーブポイントが限られていたり、ボスの状態異常攻撃にストレスが溜まったりすることも多い。おもしろいぶん、ストレスもかかるのだ。一方ギャルゲーはいつでもセーブできることが多く快適で、ストレスに関してはシナリオにもよるが基本は日常を扱ったものが多いので、RPGやアクションほど殺伐としておらず、平和である。
このシンプルさが有利に働く場合がある。それは、「久しぶりに何かゲームをやりたいが、なるべくストレスがかからず、のんびり遊べるものをプレイしたい」ときだ。このとき、ギャルゲーはリハビリとしての有力候補となる。
実際、筆者も少し前にアクションゲームの面白さを再認識するまで、手頃に遊べるアドベンチャーゲームを中心に遊んでいた。選択肢を選ぶだけなのでストレス要素が他ジャンルより圧倒的に少ないからだ。
ギャルゲーはゲーム復帰のリハビリとして存在意義があるといえよう。

また、通常の恋愛アドベンチャー(純ギャルゲーと私は読んでいる)はパワプロなどのギャルゲー要素のある他ジャンルゲーやRPG、アクションと比較してもキャラの表情、声、一枚絵、内面描写などキャラクターに関する描写が豊富である。それらをひとつひとつ楽しむのもよいし、「妹キャラの歴史」という観点からギャルゲーを研究してみるのも面白い。好きな声優やイラストレーターが見つかれば、ネットで検索して他の作品を探すのも通な楽しみ方だろう。
ギャルゲーというジャンルが存在する限り、それに付随してCGや声優の技術、ゲームエフェクトなども進化していくに違いない。単なる恋愛ゲームにとどまらず、ゲーム界の発展に寄与する可能性もあるのだ。これも立派な存在意義といえる。

そして、ギャルゲーは恋愛要素のある人間ドラマゲームでもある。恋愛はその中に主軸として据えられているが、それだけが全てではない。努力や友情、郷愁といった要素も含まれている。プレイヤーは架空の世界での経験を通じて色々なことを考え、自分の知らない世界を知るのだ。あたかも子どもが絵本を通じて世界を知るかのごとく、ある人はギャルゲーを通じて世界を知っていく。
もちろん、どんなに素晴らしい作品に出会ったとしても、それはあくまでフィクション、作り話だ。しかし、人生に疲れた人にとってはたとえ作り話であっても、感動的なドラマは心の支え、糧となる。コントローラーを通じて自らの選択で選んだ結末を見て、疲れた人はその英気を取り戻していくのだろう…。

すなわち、疲れた人生への希望の処方箋となる。
これがギャルゲーの最も大きな効用ではないだろうか。

6.終わりに


今回は長くギャルゲーについて語ってきた。人それぞれ意見はあるだろうし、万人におすすめできるジャンルでもない。
しかし、それでもなぜこのジャンルが生まれ、発展し、今現在も続いているのかを知ることは人間世界の縮図を知ることでもあり、教養としての意義も多少は認められるだろう。
「文句を言う暇があったらそれについて学べ」をモットーにこれからも私はサブカルチャー、エンタメ、芸術、森羅万象に興味を持って記事を書いていくことだろう。
日本のゲーム文化の発展を願って、打ち込みを終えよう。

ご精読ありがとうございました。

興味を持った方はサポートお願いします! いただいたサポートは記事作成・発見のために 使わせていただきます!