【短編小説】天の声
それほどではないむかし、あるところに、一人のさえない会社員の男がいました。
せっかくの休みの日も、特にやりたいことが思いつかず、遅くまで布団で惰眠をむさぼり、遅い朝食兼昼食を食べ、サブスクの動画を見たり、ゲームをしたりして時間を潰し、取り敢えず買い物に行き、翌日の仕事の事を考えて嫌な気持ちになり、それを忘れるために寝る。
今日も、そんな日を過ごすことになるんだろうと、彼は重い上半身を起こす。
「おい」
彼は、その起き上がった体勢のまま、何もない空中に向かって、声をかけた。
もしかしたら、あまりにも変わり映えのない生活に、それとも、忙しい仕事に、頭に変調をきたしたとか?
「何言ってんだ。お前だよ。そこで勝手にナレーションしてる、お前」
え?
「黙って聞いてれば、いろいろと失礼なことを間に挟みやがって」
私の声が聞こえてる?
「聞こえてるよ。で、お前は誰なんだ?」
男は、苦々しげに、吐き捨てた。
<私は・・言ってみれば、天の声かな>
「天の声?口調に神々しさもないが」
<それは、私はただの人だからね。神様でも何でもないし>
「・・聞いてる分には、ただの女の声だな。聞きやすいけど」
<でも、君の願いを叶えてあげることはできるよ>
「・・本当に?」
彼の表情には、明らかに『天の声』の言葉を疑っている様子が、にじみ出ていた。
<じゃあ、何か願い事言ってみてよ>
「・・今日は暑いから、アイスが食べたい」
彼がそうつぶやくと、ほぼ同じタイミングでインターフォンが鳴る。
男は『天の声』に向かって待っているように告げると、大きく欠伸をしながら、インターフォン越しに会話をした後、玄関に向かう。帰ってきた手元には、発泡スチロールの箱を持っていた。
「確かに願いは叶ったけど、ポイントの交換品じゃないか」
以前、クレジットカードのポイントで交換したアイスギフトが、ちょうど今届いた。なんか、思っていたのとは違う。
<でも、ちゃんとアイスが食べられるでしょう?これで信じる気になった?>
得意げに応答した『天の声』の言葉に、男は口の端を上げる。
「まだ、足りないな」
<はぁ、疑り深いな>
「じゃあ、今日の夜は焼き肉が食べたい。今度は自分の金じゃなく、他人の金で」
<・・いいよ。今度叶ったら、信じてよ>
その言葉を最後に、『天の声』は聞こえなくなった。呼びかけても反応しない。できれば、いつまでも『天の声』を聞いていたかったと思った後、そう思ったことに、男は「何を考えてるんだ」と頭を振る。
その後、男の元に地元の友人から、「出張でこちらに来ているので、久しぶりに会わないか」と連絡が入った。断る理由もないので、近くで会い、焼き肉を食べながら、近況を話しあった。なんでも、難しい案件の受注が決まったからと、その焼き肉は友人がおごってくれる。
男が家に帰ってきて、寝ようかと布団に横たわると、今まで聞こえなかった『天の声』が降ってきた。
<これで、分かったでしょう>
「確かに。もう、疑わないよ」
<ほかに叶えたいことがあるなら、言ってみて。叶えるから>
男はしばらく考えるそぶりを見せたが、願いは口にせず、別の問いを発する。
「なんで、しばらく黙ってたんだ?」
<ずっと話しかけてたら、邪魔でしょう?>
とっさに、「邪魔じゃない」と答えそうになったが、その言葉を飲み込む。
「で、君は結局誰なんだ?」
<物書き。もうちょっと詳しく言うと、趣味で小説を書いてるの>
要するに小説家らしい。でも、なぜ彼女の声が自分に聞こえるのか、男にはその言葉からは分からない。
「なぜ、君の声が僕には聞こえるんだ?」
<それは、私にも分からないよ、優士くん>
男、優士は自分の名を呼ばれて、その目を驚きで見開く。
「なぜ、名前を知ってる?」
<それは、この世界は私が作ったから>
「は?作った?」
<さっきも言ったでしょ?私は小説を書いていて、優士くんを含めて、この世界は私の小説なの>
優士は、布団の上に胡坐をかいた。単に話が長くなりそうだったのと、理解するのに寝転がった状態では無理だろうと判断したためだ。
「僕も君が作ったって?」
<そうだよ。だから、優士くんの願い、叶えられたでしょう?>
「じゃあ、僕のことは全て知ってるということ?」
優士の問いに、『天の声』は、かなりかいつまんで、彼の生い立ちを話し始める。彼女の言葉は、全て正確だった。誤っているところは何一つない。ただ、優士がかなり細かいことを質問すると、「それは考えてない」と返されることも多かった。彼女の言葉で言い換えると、「そんな細かいことは設定していない」となる。
「だったら、僕の願いも、君なら問いかける前に分かってたんじゃないか?」
<それが、優士くんと話し始めてから、貴方が何を考えてるかが分からなくなった>
そう言って、『天の声』は笑う。
<こんなこと初めてだから、よく分からないんだけどね。優士くんの気持ちを把握したり、変化させたりするのはできそうもないけど、それ以外のことならできるよ。お金持ちにするとか、出世させるとか、彼女や友人を作るとかはたぶん可能>
「・・自分をさえない会社員の男から、脱却させることもできると」
<・・よく覚えてるね?>
「まぁ、間違ってはないけど」
一気に理解しがたい内容を詰め込まれて、頭がパンクしそうだ。
優士は、重い頭を支えきれないかのように、布団の上に寝転がった。急速に眠気が押し寄せる。それでも、『天の声』の言葉を疑えず、なぜかその内容は腑に落ちた。
<おやすみなさい>
『天の声』を聞きながら、優士は目を閉じた。
優士は『天の声』とともに、毎日を過ごした。
特別なことは願わなかった。寝る前には長々と日々の他愛のないことを話す。『天の声』も楽しそうに聞こえるから、こうして話すことを忌避はしてないんだろう。でも、話しながらも、『天の声』は全て知ってるのだろうなと思って、辛くなる。そして、自分だけが、『天の声』を必要としていると気づいて、やりきれない。
そんな気持ちは、『天の声』と話すたびに、心の中に降り積もっていく。なのに、彼女と話すことを止められない。日々葛藤しているのに、この気持ちは『天の声』には分からない。どうしようもなくなって、『天の声』のことを忘れたいと願ったら、彼女は寂しそうに笑って、躊躇わず、それを叶えるんだろうな。
だって、優士は、『天の声』の制作物の一部でしかないのだから。
なら、自分のできることに賭けてみるまでだ。
<私と手を繋ぎたい?>
「そう。いつも話はしてるけど、顔は合わせたことないだろ?」
<それはそうだけど、なぜ手?>
「顔を見せてと言ったら、見せてくれるの?」
優士の問いに、『天の声』の返答はなかなか返ってこなかった。
『天の声』の言葉の端々から、彼女は自分に自信がないことを、なんとなく察していた。たとえ、自分が作り出した優士相手であっても、顔を合わせる勇気はないだろうとも。
<それは無理かな>
「だから、手ならいいかと思って」
<・・分かった>
しぶしぶといった様子の返答があった後、空中に白い腕が現れる。肘から先の部分が、何もないところから生えている。手は女性らしく小さめで、肌の色は白いのだと分かった。ネイルなどはしていない。優士がその手に自分のものを合わせると、ちゃんと握り返してきた。体温もその肌の柔らかさも、優士には感じられた。
<これでいい?>
「・・ありがとう。嬉しい」
そう答えると同時に、優士は「ごめん」と頭の中で告げ、繋いだ手の上から、もう片方の手で手首を掴み、痛くないように加減しつつ、勢いよく引っ張った。
見えていなかった上腕から先が、ズルズルと引きずり出される。優士の目の前の布団の上に、ドサッと人の体が全身投げ出された。
「いったぁ」
「大丈夫?」
片手で頭を抱える女性に、手を繋いだまま優士が声をかけると、相手は顔を上げる。
「・・まさか、こんなことになるなんて」
「会うのは、はじめまして、だね」
優士がそう声をかけると、相手はぎこちない笑みを浮かべる。
優士よりは明らかに年上の女性だった。もちろん、今まで会ったことのある人物ではない。着ている服装やメイクをしている様子からも、仕事帰りなのかもしれなかった。道ですれ違っても、何かきっかけでもなければ、あえて声をかけることはないだろう。
「鏡が見たいんだけど」
「どうぞ、洗面台はこっち」
優士が示した洗面台の鏡を見ると、しばらく動作を止めた後、女性は大きく息を吐いた。優士はそれを後ろから見て、声をかける。
「どうかした?」
「自分の作った世界に来たっていうのに、現実と姿が変わらないって、どういう訳?」
女性は明らかにガッカリした様子で、優士の方を振り向く。そして、その近さに気づいて、後ずさりした。
「天の声さんでいいんだよね?」
「・・言音でいいよ。その名で創作しているから」
言音の声は、『天の声』そのままだった。
「なんで、こんなことしたの?私、優士くんに、何か悪いことした?」
「・・僕が言音さんに会いたかっただけなんだ。」
優士がそう答えると、言音はその場にへなへなと座り込んだ。
「ガッカリしたでしょう。こんな大したことない人間で」
「そんなことない」
優士が言音に手を伸ばしても、彼女は顔を上げずに、両手で覆う。
「私に会う以外に、もっと願うことがあったはずだよ。私はそれを全部叶えられたのに」
言音はそう言って、声を上げずに泣き出した。優士は、泣いている彼女の体を抱きしめる。言音は諦めたように、されるがままになっていたが、背中を撫でている間に落ち着いてきたようで、しゃくり上げる動作が弱くなっていく。
優士の腕の中にいるのは、彼女自身が言ったように、ただの人だった。体温もその息遣いも感じられる。それが嬉しくて、優士は彼女を抱く腕に力を籠める。自分が必要としていた存在が、今、この場に、手の届くところにいる。自分の口の端が上がるのを感じる。
優士が求めていたのは、『天の声』が、自分のところに落ちてくることだった。
終
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