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【短編】まるで鏡の中を見ているようだ。

私は、いつものカフェで、自宅から持ってきた文庫本を開いた。

今日は、子どもが駅前のスクールで習い事をする火曜日。
小学生の子どもが、一人で通うには、少し距離があり、始まる時間が遅いことから、冬になると、自宅を出る時間でも真っ暗になってしまう。
さすがに心配なため、行き帰り付き添っている。

子どもをスクールまで送り届けた後、駅ビルで買い物を済ませ、残りの時間、カフェで時間をつぶす。それがここ最近の私のルーティーンだ。

本を読んでいたら、目の前で声がした。
「あの、すみません。」
顔を上げると、スーツ姿の明らかに仕事帰りといった感じの男性が、私の向かい側の椅子に腰かけていた。

あれ、その席には、買い物した荷物が置いてあったはずなんだけど。

よく見ると、彼は私の荷物をちゃんと手に持っていた。

「えーっと。お会いしたことありましたっけ?」
「いえ、初対面です。初めまして。私は森川と言います。」

森川?私と同じ苗字なんだけど。

「あの、荷物いいですよ。受け取ります。」
「いえ、それよりも貴方にお願いしたいことがあるのですが。」
彼は恐縮したように話を続けた。
「お願い事?」

なぜ、私は初対面の相手と、このように会話を続けていられるのだろう?
現実味がないせいだろうか?突然目の前に現れ、名乗って、お願い事をしてこようとしている彼に。

相手を見つめると、森川と名乗った男性も私の方を見つめてくる。
その表情は、こちらをからかっているようには見えず、真面目なものだった。
「実は。」
彼は私に向かって身を乗り出し、更に声を小さく低くして、言った。
「私と肉体関係を持ってもらいたいのです。」
「・・・。」

突然思ってもいないことを言われると、理解が追い付かず、言葉が出ないものなんだと思った。

私はテーブルに置かれた彼の左手を見る。左手の薬指にはプラチナの飾り気のない指輪がはまっている。
「・・言っていることがよくわかりませんが。」
「理由はこれから説明します。」
「ご結婚されてるんですよね?」
「ええ、貴方もですよね。」
彼もそう言いながら、私が文庫本を持っている左手に目を走らせた。

お互い結婚しているのに、しかも初対面の相手に、先ほどの件を申し出る意味が分からない。それと同時に、私はその理由とやらがとても気になりだした。

テーブルの下で腕時計に目をやる。子どもを迎えに行く時間は、まだ先だ。
相手の様子を見る限り、理由を聞いて、結局その願い事を断った(断るつもりでいるけど)として、暴力をふるったり、声を荒げたり、無理やり実力行使に及ぶことはないように思えた。態度は冷静だし、いちおう自分が非常識なことを言っているのは認識しているようだった。

「荷物は下の荷物入れに置いていいですよ。あと、何か飲み物でも買ってこられたらいかがですか?話、長くなりそうですから。」
私はことさら丁寧に言葉を返してみる。
私の言葉を聞いて、彼の顔が分かりやすく緩んだ。
「話、聞いてもらえるんですね。ありがとうございます。」
好奇心に負けたとは言えない。私は曖昧にほほ笑んだ。


2人で長い話をするには、私が座っていた席のテーブルは狭かった。
彼が飲み物を買ってきたと同時に、もう少し広めの席に移動した。
私と同じく、ブラックコーヒーを飲みながら、彼は私にその理由を話し始める。

彼には、同い年の奥さんと小学生の子どもがいる。奥さんとの仲は悪くなく、喧嘩をすることもほとんどない。ただ、夜の関係が、奥さんが子供を出産してからは数えるくらいしかないらしい。誘っても断られることが多く、その内、誘うことを躊躇ちゅうちょするようになったそうだ。ここ数年は全くと言っていいほどないらしい。

子どももいるし、奥さんは2人目が欲しいとは思っていないそうだ。彼も、子どもの世話は、仕事が忙しいせいか奥さんに任せっきりで、奥さんの負担が増えることを考えると、さらに子どもが欲しいとは思ってはいないらしい。だから、もう誘う理由に子作りは使えない。
でも、やはり彼は夜の関係を定期的に持ちたいのだという。

私は彼の話を聞いている内に、心の中に焦燥感しょうそうかんが湧くのを感じた。口の端が引きつらないようにするのが精いっぱいだ。
彼の話はとても分かりやすかった。それは多分その話を聞いてるのが、私だから。私はよく理解できる内容だったからだ。
でも、彼の話に共感するわけにはいかない。私は、あえて話の内容について、意見めいたことを言葉にしてみる。

「それ、素直に奥さんに話すしかないんではないですか?」
「それは分かっているんですけど。彼女はもう言ってこないから、いいんだと思っている節があって。私も何度も言って、嫌われるのは嫌なんです。」
「で、それが何で私とそういう関係を結ぶ話になるのですか?奥さんにバレたら、それこそ嫌われると思いますけど。」

嫌われるだけで済めばいいけど。普通は他の人と関係を持ったら、別れる云々の話になるだろう。

彼は、少し考えるように口を閉じた。
「私は妻を愛しています。夜の関係以外は何一つ不満などありません。彼女がそれを望むなら、自分も我慢しようと思ったんです。でも、結局我慢できなくなりました。風俗に通うよりはと思って、貴方に声をかけました。」
「なっ・・。」

私はそんなに欲求不満な表情でもしていたのだろうか?

さすがに反論しようとすると、彼は私の前に人差し指を立てた。
「他の人には分かりませんよ。でも、私には分かります。」
彼は、立てた人差し指を軽く左右に振った。

「私の話をすべて聞いてくれた貴方なら、分かるでしょう?私は、貴方だ。貴方にも同い年の配偶者がいて、小学生の子どもがいて、その子を出産してからレス状態で、何度か自分の方から誘ってみたけれど、その状態を改善できなくて、それ以外には問題がないから、その問題から目をつむって毎日過ごしているでしょう?」
彼は淡々と言葉を続ける。

まるで、カウンセラーと面談をしているかのようだ。いや、目の前に鏡を置いて、それを覗き見ているかのような。
性別は違うけど、彼がおかれている状況と、私がおかれている状況は、確かに似通っている。話を聞いた時に、これは自分のことを言っているのでは?と少なからず思ったくらいだから。

「・・・。」
「貴方が黙って我慢していれば、毎日は問題なく過ぎていくし、旦那さんもそのことを気にかけなくなるでしょう?別に困らせたくないですもんね。その点以外は大好きな旦那さんですし。」
彼は、私に向かって、ニッコリと笑ってみせた。

「だから、声をかけたんです。避妊はちゃんとしますよ。お互いの家庭を壊したいわけではないので。私は貴方に恋愛感情は持てないけど、それは貴方も一緒でしょう?でも貴方と一緒に、この関係は楽しめると思います。」
「・・それはセフレになれって言ってます?」
私がそう返すと、彼は憮然とした様子になった。なぜか気を悪くしたらしい。

「そういうとなんか安っぽい関係ですね。私にとってはちょっと違うんですけど。」
彼は軽く息を吐くと、自分のスマホを取り出し、私に向かって時間を見せた。

「あと、5分でお迎えの時間ですよ。この続きはまた今度にしましょう。」
「え?」

なぜ、彼は私が子どもの迎えに行かなくてはならないことを知っているのか?それも時間まで。

「すぐに答えは出せないでしょう?いくらでも待ちますよ。連絡先の交換はいいですよ。また会えるんで。」

彼は自分の荷物を持って席を立つと、自分の分と私の分のカップを持った。
「今日はお時間いただいてありがとうございます。とても有意義な時間でした。今度はもう少しお互いの距離が縮まることを望みます。」
では、また。と言って、彼はそのままカップを返却口に置いて、カフェを出て行った。


私は、ハッとして周りを見回す。
誰も私の方には注目はしていない。皆、飲み物を飲み、話をし、書き物をし、本を読み、パソコンを操作している。
夢を見たのかと思った。あまりにも荒唐無稽こうとうむけいな内容だった。
彼が目の前に座っていたことを示すものは何もない。でも、私の飲んでいたコーヒーカップはテーブルの上にはなかった。

腕時計で時間を確認した。彼が言ったように、もうカフェを出ないと間に合わなくなる時刻だった。私は慌てて支度をすると、カフェを出た。

後ろから店員の「ありがとうございました。」の声が響いた。

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