写真という表現
なぜ書くようになったのか、第10回です。
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カメラ講座は、基本的なカメラの使い方から始まり、露出についてや光の捉え方など、より実践的な内容へと進んでいきました。
書くことと同様、たくさん撮ってよい写真わるい写真を見極められるようになることが大切だというので、常にカメラを持ち歩くようになり、気になったものがあればパパッと撮るというようなことを始めてみました。
普段、あまり気にしていなかった風景が、カメラを持つことにより、突然特別なものに感じられる。
カメラの面白さにはまっていきました。
講義はその現場で撮った写真の中から自分で良かったと思うものを講師の善本さんに渡し、それを画面に映して善本さんが好評をしてくれるというスタイル。
みんな同じ場所で撮影しているはずなのに、その人がその世界をどう見ているかでまったく違う写真になります。
これがとても面白いのです。
そしてやはり講師の善本さんが撮る写真は、受講生の写真よりはるかに良い。これがとても不思議でした。
世界の捉え方が違うのです。
善本さんにそのことを質問してみると
「全体を見ないとね」
と一言。
全体を見る?どういうことだろう。
それから眼に映る世界の全体を捉えるように意識して写真を撮るようにしてみたところ、実際に僕の写真が変わっていきました。
これはとても驚きました。
とても感覚的なことですが、世界の見え方が変わったのでした。
そして写真という表現を通して感じたことが、僕の意識を大きく変えました。
写真って、既にある世界を切り取って表現するものですよね。
その切り取り方が人それぞれ違うということがその人の表現となるわけですが、元は自分が生み出したものではない。
こんなのダメだ。
といわれても、いや、世界がそうなっているんです、といっちゃえばいいのです。
逆に、あぁ!素敵な写真ですね!
といわれても、いや、世界がそうなっているからなんです、ともいえます。
写真という表現はずいぶん気楽にできるものだなと感じたのでした。
俺のせいじゃないし、みたいな。
インスタが流行る理由も気楽に表現できるからかもしれませんね。
ふと、文章も同じように考えられないかと思ったのです。
自分の心の中に浮かぶ心象風景は、ただの風景でしかなくて、それを切り取って文章にしたとしても、浮かんじゃったものなんだからしょうがないでしょ、といえるのではないかと。俺のせいじゃないし、とまではいえないかな。。
でも、写真で表現することに慣れたことで、文章で表現することへのハードルが少しずつ下がっていったのでした。
自分の考えを相対化できるようになったというか、客観視できるようになったというか。うまく説明できないのですが。
そうして、意を決してnoteをスタートすることになるのです。
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続く
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