小説『思考と対話』第一章全編(一部無料)
■第一章 「これから」を考える前に、見直すべきこと
◆ 発想を広げる邪魔をしているものに気付け
五月十七日
「あなたたちがやっているのは、勉強じゃないわね」
博希のお母さんの言葉にピクッと反応して、雫たちはノートを書く手を止めた。笑顔でサラッと言われたけど、それは中学生からすれば「爆弾発言」にほかならない。マンガだったら「バンッ」とか「ドーン」とか、効果音がつくシーンになるはずだ。というのも、雫たちは今まさにテスト期間真っ只中なのだ。
「勉強をがんばれ」と言う大人はたくさんいる。でも、せっかく勉強をがんばっている子どもに対して、「それは勉強じゃない」と言う大人はなかなかいない。雫が数学のワークから顔を上げると、博希のお母さんのニコニコした表情が何かを物語っていた。ニコニコというより、「不敵な笑み」といった方が合っているかもしれない。
「……え、何言ってんすか。勉強やってますよ?」
雫が反応に困っていると、康介が沈黙を破って反論した。三人の中で一番おしゃべりで、今も勉強しながらよくしゃべっていたから、自分が注意されたような気になったのかもしれない。
「確かに適当にやってるみたいっすけど、いつもよりがんばってる方ですよ。ぶっちゃけ面倒くさいのは認めますけど、成績がこれからに響くのはわかってるから、ちゃんとやろうと思ってますよ。」
ダラダラおしゃべりしながら勉強する中学生を褒める大人はあまりいない。端から見れば、確かに遊んでいるだけにしか見えなかったのかもしれない。だから注意されたんだろうと僕たちは思っていた。でも、そうじゃなかった。
「いや、おしゃべりがダメだって言ってるわけじゃないのよ。あなたたち、『勉強はイヤでもガマンしてやらないといけないもの』だと思ってそうだから、違うわよって言いたかったの。『楽しくて夢中になれるものが勉強』だと思う方が、がんばれると思わない?」
勉強が、楽しくて夢中になれるもの……? 意味がよくわからない。
来週には今年最初のテストが控えている。一ページでも、一行でも多く、ノートや問題集を書き写さないと、時間がもったいない。そりゃもちろん、楽しいならその方がいい。でも、楽しくなくてもやらないといけないことだってある。中学生にもなったんだから、それくらいはわかってるつもりだ。
家ではあまり勉強できないし、友だちと一緒なら少し楽しくがんばれると思っていたけど、予想外の邪魔が入った。
今は「勉強の定義」を話し合っている場合じゃない。なのに、雫はなぜか博希のお母さんの言葉が気になった。鉛筆を持つ手を休め、雫は淹れてもらった温かいお茶を一口すすった。最近、ちょっと変だ。
ここに至る始まりは、二年生になってから。そもそも一ヶ月前まで、こんなテスト勉強をすることになるとは思ってなかったし、新しい友達をつくる気すらなかった。友達と勉強しながら、そのお母さんから「それは勉強じゃない」なんて言われるこの状況は、いろんな違和感があってかなりあべこべだ。
ニコニコした博希のお母さんを前に沈黙しながら、雫は頭の中でここ一ヶ月の出来事を回想していた。
四月九日
「うわ、また矢野先生かよ!」
二年生の始まりは、早くもこの一年が「終わった」ことを告げていた。生徒に厳しい矢野先生が今年も担任で、仲が良かった敦也と貴史が別のクラス……新しいクラスの楽しみは、他に思い浮かばない。中学二年生の青春は、早くも終わりを迎えたように雫は感じていた。
思い返せば、加美原中学に入学してからの一年間は、「中学生」への憧れをすべて打ち砕かれた一年だった。勉強は難しくなるし、言葉遣いは厳しくなるし、宿題も部活もルールもどんどん増えていく。こんなはずじゃなかったのに……テレビやマンガで見てきた理想の中学生像はガラガラと崩れ去っていった。
小学生の頃は、もっと希望があった。友だちはみんな夢を持っていたし、先生も笑顔で応援してくれた。勉強もそこそこ理解できて楽しかった。なのに、最近は夢について考えることがほとんどない。友だちと話すことも、気付けば勉強と部活と遊びのことばかりになっている。
中学校は、社会へ出た時に恥ずかしくないように、ちゃんとするための忍耐の場。小学校の遊び感覚とは違う。学年集会で何度も聞かされてきたから、少しは慣れてきている。連帯責任、集団行動、文武両道……面倒くさいけど、社会で生きていくために必要なら、多分それは仕方がないのだろう。
ただ、せめてクラスくらいは楽しく過ごしたかった。勉強と部活はまじめでいいから、クラスだけは友だちと一緒がよかった。隣の二組は怒ったところを見たことがない進堂先生だし、三組は今年から新しく来た若い女の先生だ。一組だけ、厳しさに差がありすぎる。
考えれば考えるほど不満が沸いてきて、雫はやりきれない気持ちになった。自分のがんばり次第でどうにかなるならがんばりたい。でも、この状況はどうしようもない。人生、結局運次第かよ。考えれば考えるほど、雫は投げやりな気持ちになってきた。
こんな不満に慣れていくことが「大人になること」なら、俺はずっと子どものままでいい。そんなスネた考えが芽生えかけていた雫に変化のきっかけを与えたのは、何気ない母の一言だった。
四月十二日 「去年と一緒なら……去年と同じにならない工夫はできるってことよね?」
いつも天真爛漫であまり話が通じない母は、たまに核心を突いた発言をすることがある。「それどういう意味?」って聞いてもまともな説明はないから、おそらく考えて発言しているわけではない。それでも、言われたことをきちんと考えてみると、意外なアイデアが見つかることがある。
去年と同じにならない工夫……そういえば、去年は周りから話しかけられるのを待っていて、結局あまりクラスになじめなかったんだよな。じゃあ今年は、少しくらい自分から話しかけてみようかな。
そうして話しかけて仲良くなれたのが、康介と博希だった。康介は、明るくてうるさくて元気。博希は、落ち着いていて冷静で頼もしそう。雫は、少し弱気でおとなしいけど好奇心はある。それぞれ性格は全然違うけど、三人そろうことでバランスが取れるような関係ができた。
雫はまわりの目を気にしたり考えすぎたりして、興味があっても積極的にはなれない性格だった。保育園の頃から中学生になった今まで、ずっとその壁は超えられなかった。だからちょっと勇気を出して新しい友だちをつくれたことは、雫にとって大きな喜びだった。
四月十八日 「来週、一人ずつ面談するから、進路について考えてくるように」
そうやって新しい友達ができて、新学期も少しずつ慣れてきた頃に、雫はまた新たな難問にぶつかった。帰りのホームルームで、矢野先生から突然の面談宣言が飛び出した。まだ二年生になって一ヶ月も経ってないのに、もう「来年よりも先」のことを考えておけという。
せっかくがんばれそうな勢いが出てきたところで、またハードルを上げられた気分だ。この先生は、本当に中学生の気持ちがわかって先生をしているんだろうかと雫は思った。もちろん、口に出す勇気はない。
急にそんな話が出てきたものだから、博希と康介との帰り道もそんな話が中心になった。
「康介は、これからの進路とか考えてる?」
話の流れから、雫はなんとなく康介に話を振ってみた。「進路」……口に出すと、何かちょっと大人っぽくなった気がした。小学生の頃は「夢」と呼んでいた遠い未来が、中学生になると「進路」という近い現実に変わる。「夢」のようにワクワクするかどうかは別として。
「いや、まだ何も。先生はああやって急かすけどさ、どうせ地元の高校に行く以外の選択肢ないし、その先のことは考えてもわかんないし、とりあえず適当に答えとくしかなくない?」
康介はあまり考えようとする様子もなく、まじめな話は続かなそうだった。お調子者キャラだから、まじめすぎるとからかわれるかもと警戒して、雫はそれ以上深入りしなかった。
「博希は?」
「俺も何か決まってるわけじゃないけど、高校から先はもっと広い世界を見たいと思ってるから、試しにそれを話してみようかなって思ってるよ。」
「……え、海外に行くってこと?」
「そういう意味じゃなくて、もっと『世の中』を知りたいってこと。俺たち、ほとんど学校でしか教わらないから、学校以外のところでも学びながら将来のことを考えられたらと思って。」
……広い世界を見たい。さらっと返ってきた意見が大人びていて、雫と康介は沈黙した。進路なんて、とりあえずどこの高校に行くか考える程度のものだと思っていたのに、博希はその先のことまで含めて考えているらしい。
「なんか……すごいな」
純粋にカッコよく思えて、それ以上のことは言えなかった。
「あ、いや、自分で考えてたわけじゃなくて、うちのお母さんがさ。勉強のことはあまり突っ込んでこないくせに、俺の考えとか気持ちとかよく聞かれるから。「今何考えてるの?」とか、「どうしたいの?」とか。聞かれるこっちとしては、たまに面倒なんだけどね。」弁解するように博希が付け足した。
「へえ。博希のお母さん、ちょっと変わってんだね。雫は?」
「うーん……うちはお母さんあまり家にいないから、勉強とか進路とか話すこと自体少ないかな」
……雫はもっと博希の話を詳しく聞きたかったけど、そこから先は康介主導で話が進み、やがて帰り道が分かれる坂ノ上公園まで来てしまった。結局その日の会話では、進路の話は何も深まらなかった。
「じゃあまた明日!」 「バイバーイ!」
小学生の頃とあまり変わらない一日の終わりと、少しずつ変わっていく会話の中身。沈んでいく夕日が、子ども時代の終わりを予感させるようだった。「将来のこと」を考えていないわけじゃない。でも、何をどう考えればいいのかわからない。
三人とも、育ってきた環境が違うから、キャラも考え方もまったく違うのは当たり前だ。進路も人それぞれ、いろんな選択肢がある。でも、雫は博希の話に自分との「差」を感じた。
「学校だけではわからない、もっと広い世界を知りたい」
今まであまり深く考えてなかったけど、「未知の世界」がそこに広がっているような気がした。もっといろんなことを知ってみようかな……雫の中に「これから」への想いが芽生え始めた瞬間だった。
五月十七日
「テスト勉強やろうぜ! 博希の家で!」
仲良くなったメンバーなら、その展開は自然な流れだった。進路のことをちゃんと考えている博希と勉強すれば、テスト勉強も進むはず。それが雫と康介の狙いだった。勉強のコツをつかんで、勢いよく2年生最初の中間テストを迎える……はずだった。
テスト勉強を始めて一時間、博希のお母さんが部屋に差し入れのお菓子とお茶を運んできてくれたところから、おかしな流れは始まった。「勉強楽しんでね」という気遣いに、「勉強も仕事と一緒で、楽じゃないっすよ」と康介が返事したことに、博希のお母さんがパッと食いついた。
「あら、それなら……あなたたちがやっているのは、勉強じゃないわね」
最初はあまり気にしないつもりだったけど、考え始めると気になって仕方がなくなってきた。進路について考え始め、まずは勉強からがんばろうとしていた矢先のことで、出鼻をくじかれたような気がした。
「……でも楽しみながら勉強できるほど頭が良いわけじゃないんで、イヤでも勉強しないと……」
ようやく沈黙を破って、康介が少しだけ反論した。スポーツや芸術だって、楽しいことばかりじゃない。ガマンしながら続けることで、がんばってよかったと思える時がくる。学校の先生からいつも言われていることが頭の中に浮かんだ。
「まだ始めたばっかりですし、そもそも今まであまり勉強したこともなかったので……がんばってるうちに楽しくなっていくんじゃダメっすかね?」
「ダメじゃないけど、もったいないわね。ほら、『過ぎ去った時間は戻らない』って言うじゃない?」
一瞬だけ顔をキリッとさせて、博希のお母さんは誰かのセリフか名言を引用した。その余裕がある態度はふざけていて、雫たちの混乱を楽しんでいるようだった。でも、その意図が何なのか、雫と康介にはまったくわからなかった。
「『もったいない』って、どういう意味っすか?」
「せっかく三人とも時間を割いて勉強会をしてるのに、全然『勉強』らしいことをしてないじゃない?」
「え、でもノートを写すとか、教科書を読むとか、少しくらいならしてますが……」
「それを私は『勉強』じゃないって言いたかったの。」
「じゃあ、どんなのが『勉強』なんですか?」
「……それを考えるのが『勉強』じゃないかしら?」
のらりくらりかわされているような感じがしなくて、雫はますますモヤモヤした。
「教えてください!」「考えてみて」「……わかりません」「そんなことないわ」
押し問答のようなやりとりから突破口は見えそうにない。前に博希が「たまに面倒」って言ってたのは、もしかしたらこういうことなのかもしれないと雫は思った。
「『勉強』の邪魔をしちゃってごめんなさい。それじゃ、あとはがんばってね!」
結局博希のお母さんは、答えを教えてくれないままその場を離れようとした。
「母さん、そこまで首を突っ込むなら、ちゃんと二人に説明しないと、モヤモヤしてテスト勉強に集中できないだろ。」
様子を見かねた博希がようやく口を挟んだ。さすがは息子、多分普段からこういうやりとりがあって慣れているんだろう。
「母さんの言う通り、『過ぎ去った時間は二度と戻らない』んだから。」
「あら、これからがいいとこだったのに、良いこと言うわね。でもヒロくんこそ、なんでこんな勉強のやり方してるの?」
「いつもと違うことをたくさん経験しなさいって、母さんがよく言ってることだろ。友達と勉強会をするのも、新しい勉強法を試すのも、俺にとっては『勉強』なんだから。」
「あらまあ、そうだったのね。何だかお邪魔しちゃったわね。」
息子だけあって、博希は遠慮なくお母さんの介入をたしなめた。お互いの言い分の応酬が少し続いた後、博希のお母さんは少し満足した様子で「意地悪しちゃってごめんなさいね」と反省の色を見せた。
ただ、雫からすれば、「勉強じゃない」と言っていた意味をきちんと聞かせてほしかった。勉強や進路について、博希のお母さんが何か知っているようだったので、何か意味があるなら教えてほしかった。
「……あ、あの、ちょっといいですか?」
親子の会話が少し落ち着いた合間をぬって、雫は勇気を出して話に割って入った。
「おばさんの話、ちゃんと聞かせてもらえませんか? 多分このまま勉強しても集中できないので……」
博希のお母さんの考えを知れば、何かこれからの自分に役立つヒントが得られるんじゃないかと雫は直感的に考えた。それに、博希がしっかりした考えを持っている理由もわかる気がした。
「……ん? おばさん?」
せっかく博希がまじめな雰囲気を取り戻したのもつかの間、博希のお母さんは再び意地悪そうな表情で雫に聞き返した。こういう大人、たまにいる。
「え……えーっと……」
どう反応すればいいかわからず、雫は一瞬戸惑った。しかし、ここは自分の出番だと感じたのか、すかさず康介が片膝をついて、ドスを効かせた声で一芝居打った。
「姐さん、お願いします! ここはひとつ、お話を聞かせていただけやせんか!?」
こういう時は、アドリブを効かせられる康介のキャラに本当に救われる。
「……あいよ! まったく、しょうがないねえ!」
博希のお母さんも康介のノリに合わせて声に勢いをつけた。
ふうっと息をつくと、博希のお母さんは何か考えを巡らせるようにチラッと時計を眺めた。そして「話し出したら長くなるかもしれないけど、夕飯の支度もあるからちょっとだけね」と前置きすると、笑顔を見せてスッと腰をおろした。
「こんなふうに大人とお話しすることって、あまりないかしら? 楽な姿勢でいいからね。」
雫と康介の緊張感を察して、博希のお母さんはリラックスしてもらおうと声をかけた。まじめに聞こうと身構えていたから、雫と康介は少し気が緩んだ。確かに、こんな風に大人と話すのは初めてかもしれない。今までなら、そんな時間があれば遊びたかったはずだ。少しだけ大人になりつつある気分に浸りながら、雫と康介の「勉強」は始まった。
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