相手の野心を断念させる手法(国防編)

日本には、墨子が必要です。

日本には、墨家が必要です。

墨子(ぼくし、生没年不詳、紀元前450~390頃?)とは中国戦国時代の思想家であり、河南魯山の人です。

墨家の始祖でもあり、一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説しました。

いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られています。

その代表的な主張が兼愛、非攻非戦です。

兼愛とは、すべての人間を無差別に愛すること。

墨子は,自分と他人を区別せず、すべての人を愛するならば、争乱はなくなり、人は平和な生活を享受することができ〈天下の大利〉であると主張しました。

また万人を愛するのは天の意志であるとして、兼愛を道徳上の当為として人に義務づけました。

非攻非戦とは、有名な非攻論の現代語訳がありますので紹介します。

『墨子』「巻五非攻」
一、盗みは不義、侵略は義

ここに男が一人いる。

この男が、他人の果樹園に忍び入って、桃や李を盗んだとする。

もし、この事実を知れば、だれもがこの男を非難するであろう。

役人は、この男を捕えて、処罰する。

なぜなら、この男は、自分の利益のために、人に害を与えたからである。 

もし、この男が、他人の犬や羊、鶏や豚を盗んだとしたら、どうか。

その不義は、果樹園に忍び入って桃や李を盗むより甚だしい。

なぜなら、この男は、より多くの害を人に与えたからである。

その行為は、いちだんと不仁であり、したがって、その罪は、いちだんと重くなければならない。

この男が、他人の厩舎に押し入って、馬や牛を盗んだとしたら、どうか。

その不義は、他人の犬や羊、鶏や豚を盗むより甚だしい。

なぜなら、この男は、より多くの害を人に与えたからである。

その行為は、いちだんと不仁であり、したがって、その罪は、いちだんと重くなければならない。

もし、この男が、罪もない人を殺して、着物や剣を剥ぎとったとしたら、どうか。

その不義は、他人の厩舎に押し入って、馬や牛を盗むより甚だしい。

なぜなら、この男は、より多くの害を人に与えたからである。

その行為は、いちだんと不仁であり、したがって、その罪は、いちだんと重くなければならない。

以上のような場合、天下の君子は、みなこの男を非難し、不義と認めるであろう。

しかし、そういう君子であっても、他国を侵略するという大きな不義については、非難しようとしない。

それどころか、かえって称賛し、他国侵略を「義」とみなしている。

いったい、かれらは、本当に義と不義との区別をわきまえているのであろうか。 


二、ひとり殺せば死刑、他国を侵せば大手柄

人ひとり殺せば、不義であるとして、必ず死刑に処せられる。

もし、この論理にしたがうとすれば、人を十人殺したときには、不義を十回犯したのであるから、十回死刑に処すべきである。

百人を殺せば、百回死刑に処すべきである。

こういう犯罪については、天下の君子は、みなこれを非難し、不義と認める。

ところが、他国侵略という大きな不義については、非難しようとしない。それどころか、かえってこれを「義」とみなしている。

かれらは、侵略行為が不義であるという道理をわきまえていないのだ。

わきまえていないからこそ、戦争の事蹟を書きたてて後世に伝え残そうとするのである。

もし、不義であることをわきまえていれば、戦争の事蹟を書きたてて、後世に伝え残そうとするはずがない。

たとえば、ここに、一つ一つの黒は見分けても、黒一色に塗りつぶしたものを「白」と言い張る男がいるとしよう。

この男は、白と黒との区別をわきまえぬ人間である。

少量の苦味は嘗め分けても、大量に苦味を嘗めて、「甘い」と言い張る男がいるとしよう。

この男は、甘味と苦味との区別をわきまえぬ人間である。

同様に、小さな不義については非難しながら、他国侵略という大きな不義については非難しようとせず、かえってこれを「義」とみなす者、これは、義と不義との区別をわきまえぬ男ではないか。

これがいまの君子である。

かれらは義と不義との区別をあいまいにしているのだ。』


上記のような思想があって、墨家組織集団ができたのです。

墨家は、非戦だからと言って、日本のような反戦お花畑集団には、なりませんでした。

墨家組織は、国家防衛武装集団です。

墨家集団は「鉅子(きょし)」と尊称された指導者の下、強固な結束で結ばれていました。

『呂氏春秋』の記述によれば、楚において、守備していた城が落城した責任をとって「鉅子」の孟勝以下、墨者400人が集団自決したといわれています。

(これは、本当はこの敗戦から学びを獲て、より強固な防衛戦術を身に付け、次に繋げるべきでした。)

城から脱出して孟勝の死と鉅子の引継ぎを田襄子に伝えにいった使者の墨者二人も、楚に戻って後追い自殺したというのです。

このような強固な結束で、かつ、墨家集団は宗教的集団でした。

知略を尽くして、攻められている国を守り、墨子の思想を広める集団でありました。

墨子の逸話には、このようなものがあります。


楚の王は伝説的な大工公輸盤の開発した新兵器、雲梯(攻城用のはしご)を用いて、宋を併呑しようと画策しました。

それを聞きつけた墨子は早速楚に赴いて、公輸盤と楚王に宋を攻めないように迫りました。

宋を攻めることの非を責められ困った楚王は、
「墨子先生が公輸盤と机上において模擬攻城戦を行い、墨子先生がそれで守りきったなら宋を攻めるのは白紙にしましょう」
と提案しました。

机上模擬戦の結果、墨子は公輸盤の攻撃をことごとく撃退し、しかも手ごまにはまだまだ余裕が有りました。

王の面前で面子を潰された公輸盤は、
「自分には更なる秘策が有るが、ここでは言わないでおきましょう」
と意味深な言葉を口にします。

すかさず墨子は
「秘策とは、私をこの場で殺してしまおうということでしょうが、すでに秘策を授けた弟子300人を宋に派遣してあるので、私が殺されても弟子達が必ず宋を守ってみせます」
と再び公輸盤をやりこめました。

そのやりとりを見て感嘆した楚王は、宋を攻めないことを墨子に誓いました。

使命を終えた帰り道、宋の城門の軒先で雨宿りをしていた墨子は、乞食と勘違いされて城兵に追い払われてしまったのです。

墨子の御技は、救われた宋人にもわからない程の素早さでありましたし、命の恩人対して、仇のような仕打ちをしたのです。

それが、人間の悲しいところですね。

この逸話から
「自説を頑なに守る」という意味の「墨守」という故事成語が生まれました。


このように、墨家は反戦お花畑主義とは違いました。

リアルに防衛戦を研究し、相手の野心を断念させる手方を使っています。

日本には、軍事を受け付けないことが反戦に繋がるという馬鹿な思想が蔓延しています。

これを打破するには、墨家思想が必要です。

非攻非戦は、本来は国防強化そのものです。

日本人には、反戦を言うなら、墨家思想に立ち返って欲しいと思います。

また、中国にも、非攻思想をよく学んで欲しいと思います。

中国が産んだ、もっとも偉大な思想家ですから。

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