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佐々木敦さんが語る:第5回(最終回) 批評にこだわってきた男が批評家をやめると言うとき

2020年8月26日発売予定の『批評王——終わりなき思考のレッスン』を刊行を記念して、著者・佐々木敦さんへのロングインタビューを連載形式でお送りします。(第4回はこちら)

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■批評家をやめる真意

僕は批評にこだわってきましたが、今年(2020年)の初めにツイッターに、「文芸ムック『ことばと』(書肆侃侃房)編集長になりました、それから批評家をやめるつもりです」などと書き、3月に初の小説『半睡』を『新潮』に発表しました。


「批評家をやめます」は「卒業」とも「引退」とも表現されていますが、意味として一番近いのは「批評家の看板を下ろす」「肩書きに批評家を使わない」ということです。今までのような批評の文章は今後も多少は書くと思うし、実際すでに書いてもいますが、少しずつ創作のほうに重心をずらしていきたいと思っています。

自分だけが納得しているような言い方になってしまいますが、新潮社の『これは小説ではない』(2020年)の長いあとがきにも書いたように、僕は批評家として小説を書いたつもりではないんです。そういうことではなくて、いわばただの「佐々木敦」としてはじめて小説を発表したんだ、という気持ちなんですよ。

今後肩書きをどう名乗るのかと訊かれて、まだ1作しか書いていないから小説家なんて名乗れないです。たとえば批評家・小説家、あるいは哲学者・小説家といった複数併記の肩書きをされる方もいます。でも僕は自分ではそれが出来ないんです。批評家という肩書きは他とは併記できないものだと思ってやってきた自負がある。だから批評家を名乗るのをやめないと、創作はできなかった。

僕は「批評家養成ギブス」の頃から、他人に批評を教えるときは、批評と創作は全く違うと言ってきました。批評で本当に重要なのは、批評対象、批評されている何かなんだ、と。批評家はあとからやってきて、それについて考えたことを書くにすぎない。だからつねに遅れてくる二次的な存在なのだ。だが、それにもかかわらず、いや、それだからこそ、あとからやってきた批評家は、批評対象と拮抗するようなものを書けないといけない、と繰り返し言ってきたんですね。

そうした気持ちが強かったこともあって、端からみたら、そんなこと誰も気にしていないよ、と思うのかもしれないですが、自分の中のけじめとして、批評家の看板を下ろさないと小説を発表することができなかった、ということなんです。まあ、謎のこだわりというか、一種の妙なダンディズムであって、他人にはわかってもらえなくてもいい、とも思っています。それ以後にも批評は発表してますから、すでに「あいつ、批評家やめたはずなのに、ぜんぜんやめてないじゃん」とか言われていると思うんですが、それはそれで構いません。

■「やめてどうするんですか?」

「批評家やめます宣言」には、もう一方で、驚かせたいという気持ちがあったことも否めません。長く批評にこだわってきた男が、急に批評をやめると言ったらインパクトがありますから。僕は若い頃から、突然新しいことをやってみせて、人を驚かせることが好きなんです。でもそのためには発表まではとにかく黙っている。秘密主義なんです。小説は2019年の8月末から書いていましたが、担当編集以外には完全に隠していました。だから「批評家やめる宣言」もサプライズにしたいという気持ちがあって、『ことばと』の編集長就任の発表と同時に発表しました。

でも批評家をやめようと思っていることは、昨年から親しい編集者や知人には、機会があるたびにほのめかしてきました。そうすると必ず聞かれるのは、「やめて、じゃあどうするんですか?」ですね。でも、それには答えませんでした。だから深刻な病気なんじゃないかとも勘ぐられもしました。教え子と呑んで二人きりになると、急に「実は聞きたいことがあるんです、お身体は大丈夫なんですか?」って。健康面で批評家を続けられなくなったと捉えられていたんですね。でもそれにも答えず、ひっぱってひっぱって2020年を迎えた。

2020年初のツイートで公にしたら、「『ことばと』の編集長になるためだけに批評家をやめるの?」「福岡に引っ越すの?」なんて言われました(笑)。まだ小説のことはおくびにも出していなかったので、自分の中ではシメシメと思わないでもなかったです。

3月に小説を発表して、あらためて「批評家やめます」ツイートをしました。「やめて何をするの?」という反応に加えて、批評家を続けるのになんらかの障害や不満があったのだろうか、という反応が多かった。ある人はネットで、「佐々木さんほど仕事をしていても、批評家では食えないのか」などと発言していました。僕はそれに対してレスポンスするつもりもないけれど、ぶっちゃけ批評家を続けたほうが経済的には楽ですよ。

『これは小説ではない』でも新潮社がプロモーションで、「批評家卒業宣言後、初小説を発表」などとアピールしてくれています。『批評王』もそれでいいんですよ。批評家をやめる男の「遺言」なんだと序文から書いているくらいですから。自分の中での批評家時代が終わった、自分から終えたという感慨がある。それがたまたま2020年という新たなディケイドの最初の年になったのも、ある種の運命みたいに捉えています。

■あえて自分にギブスをはめる

ならば、批評をやり尽くしたのか、というと、また違うのかもしれません。
僕は「やろうと思えば続けられる」と思うと、やめたくなっちゃうんです。それはかなりはっきりしていて、仕事でもプライベートでも、そうした傾向が強い。今までやってきたことをこれからもやめないで続けられると思うこと自体が、自分がやってきたことの結果だから、ある意味でその状態に至るために努力を続けてきたといえます。でも、それがはっきりすると、やめたくなるんです。それは嫌になったという意味じゃなくて、やめてみたくなるんです。やめてみたらどうなるんだろうと考え始めてしまう。

だから相当な実験主義者なんだろうと思います。やってみたらどうなるだろう、って思うと、結果がわからないほうを実行してしまう。それでいろいろと損をしてきたこともあるんですが、なぜかどうしてもそうなってしまう。

「批評王」になろうと頑張ってきて、いざ「批評王」になったらやめてしまう。それは性格的な部分が強いと思います。ずっと同じことをやると飽きるとかよく言うじゃないですか。でも僕は、飽きっぽっいわけでもなく、むしろしつこく同じことをやれるんですけど、だからこそ嫌なんです。飽きているわけではない。同じことをずっとやり続けることもできてしまう自分を無理にでも切断しないと、人生が終わってしまう。そういう気持ちが強い。

小説を書いたのも、批評家をやめると言い出したのも、年齢的にこの先、そんなにいろいろなことはやれないだろうと思い、今までやっていなかったことで、やることは可能だけれども結局やっていなかったことってなんだろうと考えたときに、丸ごと空いていた大きな領域としてあったのが創作だったんです。

だから今後は創作に自分をシフトしていきたい。それも騙し騙しやるとか、批評の仕事に紛れこませてやるというよりも、はっきりと舵を切ってみる。変化を他人に見せることによって、自分を縛りたい、ギブスをはめたい、という気持ちがあったんだと思います。まあ、この先どうなるのか、自分の中でも不安がないわけではないのですが。でも、人生も実験、なので。

■批評家時代を振り返って

僕は完全なライター上がりで、めちゃくちゃいろいろなものを書くというところから、ちょっとずつ批評家になっていった。アカデミシャンでもないですし、大学でも教えているけれど、論文というものは一回も書いたことがありません。そういう中で、自分が物書きとして、批評家として、どのくらいニーズがあるかは、本当にわからない。今もってわからなくて、僕は客観的に自分のことを過小評価しすぎるところがあって、自虐的だってよく言われるんですが、自分がマイナーでマージナルな存在だという意識がすごく強い。『批評王』も、こんな本よく出してくれるな、と(笑)。本当にちょっと引いた目で見てみたら、佐々木敦はかなりわけのわからない人だと思う。社会的存在としては、良くも悪くも極めて例外的だと自分でも思います。

それでもこれまで批評家稼業を続けてこられたのは、原稿を依頼してくれる人たちがいたから、本を読んでくれる読者がいたから。ありがたいという気持ちは本当に強いですよね、「ありがたい」には、感謝の「ありがとう」という意味と、「有り難い」という非常に低い確率の出来事が起こったという意味の、二つがありますよね。その両方の意味で、今はただ「ありがたい」と思っています。(完)


ロングインタビューの後半は、『批評王』購入特典『「批評王」の省察──佐々木敦、全著作を語る。』に収録しました。一部書店限定で取り扱っています。詳しくは工作舎webサイトへ。

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佐々木 敦(ささき・あつし)
文筆家。1964年、愛知県名古屋市生まれ。ミニシアター勤務を経て、映画・音楽関連媒体への寄稿を開始。1995年、「HEADZ」を立ち上げ、CDリリース、音楽家招聘、コンサート、イベントなどの企画制作、雑誌刊行を手掛ける一方、映画、音楽、文芸、演劇、アート他、諸ジャンルを貫通する批評活動を行う。2001年以降、慶應義塾大学、武蔵野美術大学、東京藝術大学などの非常勤講師を務め、早稲田大学文学学術院客員教授やゲンロン「批評再生塾」主任講師などを歴任。2020年、小説『半睡』を発表。同年、文学ムック『ことばと』編集長に就任。批評関連著作は、『この映画を視ているのは誰か?』(作品社、2019)、『私は小説である』(幻戯書房、2019)、『アートートロジー:「芸術」の同語反復』(フィルムアート社、2019)、『小さな演劇の大きさについて』(Pヴァイン ele-king books、2020)、『これは小説ではない』(新潮社、2020)他多数。


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