新英国王チャールズ3世の男系祖先オルデンブルク伯家とその子孫の六カ国の国王・皇帝/ドナウ・デルタとドナウ・黒海運河

5月8日(月)雨

土曜日からの雨が、まだ降り続いている。昨日は連休最終日だったが、私は今日は休日なので連休中に広げた風呂敷をもう少し詰めるべきところを詰めるだけ詰めて、一度畳まないとと思う。午後と夜は多分そういうことが仕事の中心になるかなと思うのだが、コロナも明けて、というにはまだ慎重さが必要だが、5類移行というのは一つの節目になると思うし、改めてやるべきことをなるべくしっかりと自分の軌道に乗せていきたい感じである。

昨日はやりたいことが次々に出てくる感じでなかなか手につかなかったブログをなんとか書いて、昼食後職場に出て仕事の方向性についていろいろ考えて書き出し、夕方に一息入れて岡谷に出かけた。「世界のともだち」シリーズが岡谷の市立図書館にあることを知ったので出かけたのだが、割合スムースに「世界のともだち 南アフリカ」を借りられて良かった。市立図書館は市役所と市民病院の隣にあるのだが、すぐ近くにモールもあって思ったより便利だということに気づく。図書館だから月曜日は休館(公立図書館で例外は日比谷図書館くらいしか知らない、国会図書館は日曜休館なので月曜はやっている)だが、日曜日に出かけたときには利用できるなと思った。7時まで開いているというのもありがたい。


仕事のことはとりあえず今のところ書くことはないので雑学的なことを書いておこう。「歴史こぼれ話」みたいなやつ。Twitterには書いているけれども。ネットサーフィンをしていて拾ってきた話なので調べれば分かる話ではあるのだが。

ドナウ川は国際河川と言われていて、特にヨーロッパ中央部ではライン・マイン・ドナウ運河などでライン川に接続して、下流域の東ヨーロッパの諸国からハンガリーやオーストリアとドイツやフランスが水運で結ばれている。ドナウ川はヨーロッパではカスピ海に注ぐヴォルガ川に次ぐ長さの川だが、ロシア国内のみを流れるヴォルガ川よりも重要度は高いだろう。

あまり知らなかったが、このドナウ川というのは実は大量の土砂を運んでいる川でもあるという。最下流のルーマニアではドナウ・デルタが広がり、支流はウクライナとの国境を成している。このドナウ・デルタは世界自然遺産に登録されている野生生物の宝庫でもあるのだが、ドナウ川が運んでくる大量の土砂のために毎年40メートルの幅で広がっているのだという。

こうした河川では当然ながら水深は浅くなり、大型貨物船の通行には適さない。このような川としては中国の黄河が有名だが、黄河ではもともと水深が浅かったところを水資源の利用が増えたために断流してしまう、つまり全く水がなくなってしまう現象が起き、たびたび問題になった。

黄河流域は古い文明が発達していたが、中上流域にあった都の長安や洛陽と新たに開発された江南や北方民族の本拠地である河北を結ぶために隋の煬帝が大運河を開鑿した。これは中国の経済の大動脈となり、その甲賀との接続点である開封は繁栄し、北宋の時代には首都になった。明代には江南と北京を結ぶために開封を迂回しない運河が新たに開削され、現在も「京杭大運河」として世界遺産にも登録されている。

ドナウ川でも下流域のルーマニアでは19世紀に黒海と結ぶ運河の建設が目指されていたが、当時はオスマン帝国の支配下にあり、ルーマニアの独立後もトルコとロシアの影響下で建設は進まなかった。社会主義時代の1950年代に強制労働などで建設が進められたが失敗に終わり、1973−87年のチャウシェスク政権下で工事が進められてようやく完成したのだという。

これにより現在ではドナウ中流域から大型船で黒海に出ることができ、3000万トン以上の貨物が運ばれているという。建設は大きな犠牲が伴ったようで、社会主義時代の暗黒面として文学作品にもなっているようだ。


もう一つ調べたのがイギリスの新国王チャールズ3世の家系。チャールズ新国王の王位は母親のエリザベス2世から継承したわけだが、それでは父親の家系を男系で辿っていけばその祖先はどうなるのか、ということに興味が湧いて、少し調べてみたのである。

イギリスの王位継承法は近年改正されるまで、基本的には男系男子が継承するが男子がない場合は女子が継承し、以降もその女王の子孫が継承するということになっていて、その際には王朝名が変更になる。エリザベス2世まではウィンザー朝であったが、チャールズ3世以降はマウントバッテン・ウィンザー朝に変更された。このような変更は女王として一つ前のヴィクトリア女王の時にも行われていて、それまではハノーヴァー朝であったが王配アルバートの家名をとってサクス=コーブルク=ゴータ朝になった。しかし第一次大戦の勃発により敵国であるドイツの家名を取ることが不適切ということになって1917年にウィンザー朝に改称したわけである。

エリザベス2世の王配はエディンバラ公フィリップだが、彼の父はグリュックスブルク朝ギリシャの王子アンドレアスである。彼の結婚にはマウントバッテン家出身の母アリスの兄弟・ルイスの尽力があり、ギリシャから亡命した後、不安定であった彼の立場が婚約により安定して、イギリスに帰化の際にマウントバッテンを名乗ることになったわけである。ちなみにマウントバッテンという姓もアリスの父、ルイス・アレクサンダーがドイツ・ヘッセン公の血を引くバッテンベルク家の出身であったのを、第一次大戦中に同意の英語であるマウントバッテンに変更したもので、王家と同じ事情での改姓だったわけである。

したがって男系を辿るとチャールズ3世の父はエディンバラ公フィリップ、その父はギリシャ王子アンドレアス、その父、つまり曽祖父はギリシャ王ゲオルギウス1世(位1863-1913)ということになる。ゲオルギウス1世はデンマーク王クリスチャン9世(位1863-1906)の息子である。クリスチャン9世は即位後すぐにシュレスウィヒ=ホルシュタイン戦争が起こり、両公国をプロイセンに奪われている。彼が新国王の高祖父ということになる。

クリスチャン9世は傍系(女系)からの相続であり、彼の父はグリュックスブルク公フリードリヒ・ヴィルヘルムである。しかしこの家系も8代前に遡るとデンマーク王クリスチャン3世(位1534-59)で、その父は同じくデンマーク王フレゼリク1世(位1523-33)、その父はデンマーク王クリスチャン1世(1448-81)であり、この時代のデンマーク王はカルマル同盟下でスウェーデン・ノルウェーの王を兼ねていた。彼の父はオルデンブルク伯ディートリヒだが、母方がデンマーク王エーリク5世(位1259−86)の子孫だったということで選出されたのだという

この家系はディートリヒから10代遡ることができ、初代オルデンブルク伯はエギルマール1世(1040-1112)で、それ以前はわからないようだ。彼がチャールズ3世の最古の男系祖先として判明している人物ということになる。

逆に言えばこの家系はデンマーク、スウェーデン、ノルウェー、ギリシャ、そして新たにイギリスの国王を出したことになるわけだが、実はロシア皇帝ピョートル3世(位1762、妻エカチェリーナ2世のクーデタにより廃位)はデンマーク王フレゼリク1世の息子のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公アドルフの6代目の子孫であり、以降の王家、ロシア革命で廃位されたニコライ2世までは同じ家系ということになるわけである。したがって、オルデンブルク伯の家系は六カ国の国王を出したことになるわけだ。

ヨーロッパの多くの国の王を出した家系としてはフランスのブルボン家(遡ればカペー家)とオーストリアのハプスブルク家が知られているわけだが、このように見ればオルデンブルク家もかなりのものだということになる。逆に言えばヨーロッパの王家や貴族が網の目のような親族関係で結ばれていることを示してもいる。

この辺りの研究は一度立ち読みをしたことがあるがどの本なのかよく覚えていないので本気で調べるならもう一度探さないといけないが、このオルデンブルク伯の家系に見られるように多くの貴族は11世紀くらいまでなら遡れる家系が多いようだ。その前になると記録が残っていない、逆に言えば記録に残す必要性を感じなかったということになるのだろう。またこの頃に国王や大貴族などの従士として出世した貴族が現在まで家系を残しているということなのかもしれない。この辺りのことはちゃんとした本をしっかり読まないとわからないのだろうと思う。

このような家系というものを、新国王をはじめ多くのヨーロッパ貴族たち自身はどのように捉えているのかなと思うが、なかなか本音は語らないのかもしれないなとも思う。

ちなみにオルデンブルクは北ドイツ、ブレーメンの西45キロにある人口17万ほどの都市であり、オルデンブルク伯領はウィーン体制下でオルデンブルク大公国となり、ドイツ帝国の構成国家となった後、ドイツ革命により自由州となった。現在はニーダーザクセン州の都市である。

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