未来のためにできること。情報リテラシー、特に科学技術リテラシーを高めること。

現代に生きているということは、必然的に「科学」や「技術」と向き合うことなわけだけど、だからと言ってすべての人が「科学」や「技術」の教育を受けているわけでもないし、またそれらを使いこなせるわけでもない。

ただ、多くの人はスマホを普通に使っていて、この端末は人々の生活を劇的に変えたと思う。電話とインターネットとカメラと文字による会話と画像や動画の共有、情報検索、地図検索、様々なアプリを使えば知らない人と出会うこともできるし、また星空に見えている星が何なのかも検索することができる。楽器が弾けなくても音楽を作ることもできるし、絵が描けなくてもAIでそれっぽいものを製作することもできる。わからない外国語をそのまま翻訳できるし、様々な学習にも使うことができる。実際のところ、21世紀の発明でこれだけ人の生活を変えたものはほかにないだろう。

その分、スマホをある程度使いこなせる人と使いこなせない人の間には大きな格差が生まれる。疑問が起こってもすぐ調べて解決できる人と、どうしたらいいのかいつまでもわからない人が出てくる。行政情報や防災情報もスマホを持っている人に伝達するのが行政無線などより早くて確実だということになる。それが得られない人は必要な情報に到達できなくなる。

多くの人に膨大な情報がほぼ無料で提供されるようになったということと同時に、我々の個人情報も様々な形で流通するようになっている。ビッグデータのように少なくとも建前上は匿名の情報として流通するものもあるが、個人情報そのものが商品価値を持つ時代になっているため、様々な形でそれを獲得しようと多くの手段が用いられている。

インターネット=スマートホンは「世界を商品化した」ともいえるわけだが、逆に「我々自身も世界によって商品化された」ともいえるかもしれない。「我々が深淵を覗いているとき、深淵もまた我々を覗いているのだ」といったのはニーチェ「善悪の彼岸」だが、それを現実化したのが科学技術の進歩であったというのもある種のアイロニーかもしれない。

個人情報の問題や情報格差の問題が科学技術の問題としては注目されるが、もう一つの問題は情報を精査する能力の問題がある。つまり、世の中に流通する情報をいかに取捨選択するか、ないしは何を取るべき価値がある情報とし、何を捨てるべき情報と考えるかという問題がある。

これはいわゆる情報リテラシーの問題だが、リテラシーという言葉を「膨大な情報から必要な情報を引き出し、活用する能力」と言い換えると世の中には世の中には少し価値のある情報とすごく価値のある情報しかないように判断されるかもしれないが、実際には全く価値のない情報や読むだけ有害な情報などもあるわけで、我々は日々そうした玉石混交の膨大な情報に向き合っていかなければいけなくなったともいえるわけである。

触れるべき情報がそう多くなかった時代は陰謀論やニセ科学情報などに触れずにすんでいたのが、スマホやインターネットを通じて膨大な情報が入ってくる中で様々な理由で引っかかるべきでない情報に引っかかる人が増えているのは事実だろう。

ただこれは逆の面もあり、ある種の専制・情報統制が行われていた社会においては新しい情報が入ってくることによってその社会そのものの矛盾や権威ある人々の言ってることのおかしさに気づいたりする場合もあるわけである。ただこれにしても、「今まで自分は騙されていた。真実は別にあった。」と目覚めてしまったときにこの真実が本当に真実なのかを保証してくれるものがあるわけではない。そうした間違った真実に引き付けられないようにするのは教育が大きいわけだが、教育もまた数十年のスパンで考えれば大きく変化する部分もあるので、「まじめな人ほど騙される」という状況も起こりやすくそれもまた問題であることは確かだ。

だから常識や信念、信仰など情報の当否を確かめる体系が重要なのだが、その中でも重要と考えられるのが「科学知識・科学リテラシー」である。特に科学と政治や社会、経済が必ずしもその主張する方向が一致しないときには、科学的な結論を取るかどうかとは別に、それを踏まえて判断しなければならないことは確かである。

近年は特にそういう問題が多い。新型コロナウィルス感染症の蔓延により、日本でも感染対策が実行されたが、経済を重視する人たちから強い反対の声が上がったのは記憶に新しい。特にひどかったのは、医学者・疫学者として自分の知見を述べ、感染対策を説く医師や研究者に対し、聞くに堪えない悪口雑言や誹謗中傷が寄せられたことである。

本来、こうした社会的に大きな問題は、医学や医療の問題と経済や社会の問題について折り合いをつけるのは政治の役割である。しかし、今回は政治は前面に出られず、医師や研究者たちが世論の非難の矢面に立つことになった。いかなる場合においてもこうしたケースは政治が主導権を取るべきだが、それができなかったのは政治家が逃げたという面もなくはないが、政治家にこういうパンデミックに対処する十分な知識や理解が足りず、科学者を前面に押し出さざるを得なかったということもあったのだと思う。

日本は結局、感染対策はかなり後期まである程度以上社会においてなされていたし、それによってアメリカやインドのようなひどい死者数にはならなかったのだから、医学的な面から言えばかなりの成功を収めたと言っていい。ただそれが正当に評価されているように見えないのは、経済を重視する人たちの悪口雑言がある意味社会に大きな亀裂を生んだことが大きいのではないかと思う。次に新型コロナよりもはるかに危険な感染症が起こった時、医師たちは今回と同じように協力的であるだろうか。それを保証する社会の体制を作らなければ、彼らも二度目はごめんだと思うかもしれない。

もう一つは今まさに進行中の問題だが、事故を起こした原発の近くを流れる地下水がメルトダウンした原子炉の近くを通るために放射能に汚染されてしまい、それらを放射性物質を除去処理をして海中に放出する、いわゆる処理水の問題で、中国が日本からの海産物の輸入を全面的に禁輸するなど強い拒否反応を示すとともに、日本でも共産党や社民党、民主党などを支持するいわゆる左派の人々か放出を強く非難している問題である。

もちろん根本的な問題は東日本大震災をもたらした「2011年東北地方太平洋沖地震」によって東京電力福島第一原子力発電所が原子炉溶融、いわゆるメルトダウンの事故を起こしたことにある。こうした事故は世界的にも過去に例が少なく、12年経ってもまだ廃炉作業は終わっていないのが現状である。このケースで厄介だったのは上記のように豊富な地下水の流入で、これらの流路を変えたりメルトダウンした原発に触れないようにすることが結局できず、汚染された水がタンクに貯められ続けたことにある。

これらを処理するためには現実的には海洋に放出するしかないわけだが、これ以上放射能汚染を広げないために厳密に核物質を除去し、分離できないトリチウム水のみを含んだ処理水を、それでも検出限界よりもさらに薄くして放出することにしたわけである。現代科学においてはこれ以上のことは不可能で、国際原子力機関等とも十分に協議し、問題ないということで放出が始まったわけである。

こうした経緯から、中国が反発しているのは純粋に科学的な危険を見てのことではなく、中国包囲網を強めている日本に対する政治的嫌がらせであることは間違いないわけだが、それに便乗した一般の中国人がいたずら電話をかけたてきたり、科学的リテラシーにかける左派の人々がネット上でおかしな発言を続けたりしているわけである。

この問題は大部分が政治的な問題なのだが、やはり科学リテラシーの問題も大きくかかわっていることは事実である。

日本はもともと、原爆が実際に使用された世界で唯一の国であることから、放射能による被曝の恐ろしさは子供のころから教育されている。また、水俣病やイタイイタイ病、足尾銅山鉱毒事件など、海洋や河川に有毒物質が投棄されたことによる公害病を学んできているので、これらに対しては強い拒否反応がある国民性でもある。

だから「汚染された地下水」の問題もとても敏感になる国民が多かったのは当然のことで、それだからこそこの問題の処理に当たる人々は徹底的に科学的に問題の除去に取り組んできたわけである。

こうした有害物質の除去は基本的には下水処理の問題と同じである。検出限界以下程度にまで水を浄化して川や海に放出する以外に手段はない。その処理過程の濃度の問題はもちろんあるが、こうした処理に不満な人たちの理屈は結局は「一度汚れた水は二度ときれいにならない」という感覚的な問題なので、科学的にいくら説明しても無駄だという部分がある。

これはつまりある種の科学の限界をしめしているのであって、科学では「よごれた水」という人々の意識までは浄化できないのである。つまり、ある種感覚的に不自然なものを人々に飲み込んでもらうしかない。これは、「体の中に自然でない金属を入れるなんて!」という不安感のある関節症や骨折の患者の体内に金属を入れることでと同じで、「よりましにするために不自然を飲み込んでもらう」しかないわけである。そしてその説得はある程度は限界がある。今回はその限界に政治的なものが強く絡んだために、問題が大きくなったと言える。

科学リテラシーというのは先に挙げた新型コロナや処理水の問題にみるように、何か社会的ないし社会心理学的な不都合が起こった時に、科学に何ができて何ができないかをしっかり見極めたうえで政治の主導によって社会・国民としてそれを検討し、やむを得ない場合は受け入れていくということまで含まれているのだと思う。

こうした意味で、「未来のためにできること」で最も重要なのは、情報リテラシー、特に科学技術に関するリテラシーを高めていくことを社会としてやっていくことだと思うのである。

字数が多くなってしまったのでnote募集のタグはつけません。でも「未来のためにできること」はまず「しっかりとした知識・考え方を身につけること」ではないかと思います。

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